第19話 危険は追ってくる
────息が切れる。
肺が熱くなって、喉の奥から血の味がする。
怖くて、怖くて、堪らなくて。振り返る事すら出来ないまま、走っていた。
獣人特有の足の速さと、持久力。それすらすり減らすような、追ってくる何か。
あと少しで学園だ。あと少しで安全圏だ。
だから頑張らなくては。あと少しなのだ。
けれど、学園の門をくぐる前に、それに追いつかれてしまう。
後ろから大きく口を開ける、冷たい孤独な闇。それに飲み込まれる恐怖が、大きく身体を震わせた。
***
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
反射的に起き上がる身体と、震えが止まらない体。
バクバクと破裂しそうな胸を押さえて、毛布に垂れる汗を見つめる。
まだ夜中の二時を回ったところだ。もう一度眠ろうにも、目がすっかり覚めてしまった。
息を整えていると、パタパタと走る足音がして、直ぐに隣の部屋からレーガが駆けつける。
「イヴァン! イヴァン大丈夫!?」
まだ寝ぼけているレーガは、ベッドの前で
「また、怖い夢を見たの?」
「あ、うん。でもヘーキ。もう慣れっこだからネ」
「でも、ここんとこ毎日じゃない?」
レーガは、イヴァンを心配する。けれど、イヴァンには頼れる人がいなかった。
ナヴィガトリア学園は、あらゆる種族に学ぶ機会を与える、開かれた学校である。けれど、受け入れ始めたのは十年前からとほぼ最近で、半妖精や獣人族、魔族への偏見は根強く残っていた。
「きっと見なくなる日が来るヨ。心配させてごめんネ」
「……僕、相談出来る人、知ってるよ」
レーガは、イヴァンの手を握って笑いかける。イヴァンは不安そうに耳を伏せた。
「誰も、ボクに優しくしなイ」
「そんな事ないよ。無関心な人は、誰かを傷つけることにも興味無いから」
レーガはイヴァンにそう言った。イヴァンは笑って「ありがト」とレーガの手を握り返した。
「それで、その人っテ?」
***
明け方、東から風が吹く。
サモンがまだ寝ているのに、風が前髪で遊び、頬を撫でる。
それがくすぐったくて、サモンが薄らと目を開けると、一人の男がサモンの髪をいじっていた。
「おっ、起きたかい! おはようさん」
「起こしたのは君だろう。アズマ」
長い髪を適当に結わえ、着崩した服装の快活な風の精霊。青いアイシャドウが爽やかなアズマは、サモンの毛先を指で弾く。
「そろそろ散髪の時期じゃねぇか? 毛先がほれ、割れてんぞ」
「枝毛くらい気にすることないよ。それより、話があって来たんだろう? 他の皆より、君は
アズマは「うははっ」と笑うと、ベッドの端に座る。サモンは体を起こし、アズマの座れる面積を広げた。
「王都の情報だったな。単刀直入に、最近の王都は酷く荒れてやがる。何でも唯一の跡継ぎだったヘレンデル王子が、病で亡くなったらしい。そんでもって王とお
「はっ、人が一人死んだくらいで統治権を放棄か。馬鹿馬鹿しい」
「兄弟がこんな育ち方するなんて……。親の顔が見たいぜ」
「君たちだよ。ホムラと同じようなこと言わないで」
あからさまに泣いた振りをするアズマに、サモンは脇腹をつつく。アズマは「へーへー」と、サモンの手首を掴んで止めた。
「それより、妖精の
「それに関してだが、妙なんだよなぁ。治安が悪くなったせいなのか、裏業者が表に出てきてる。ありえない物が大通りで大量に売られてんだよ」
「ありえないもの?」
「分かりやすい物で言えば、『火鼠の皮衣』や『
サモンは目を見開いた。
火鼠は巨大な体を持ち、火山に生息する。防護服を着ても小一時間で溶けてしまうような熱い場所にいて、滅多に見つからない希少種だ。見つかったとしても、こちらが火山の熱で溶けて死ぬか、火鼠に襲われて死ぬかのどちらかで、毛皮を手に入れることは不可能に等しい。
死んだ仲間の羽をくれるのだ。悪用する気配がしたら、すぐにでも取り返して二度と現れなくなる。
それが大通りで大量に? ──有り得ない。
「あの様子じゃ、妖精そのものも流通してんだろうな。獣人族の売買も、裏通りで見かけたしなぁ」
「それは、誰が何処から入手してる? 王都への納品頻度やその入荷量、近辺の妖精の
「おいおいおい、出来なくはないが、どんだけ時間がかかると思ってんだ。王都の情報自体、一週間も時間がかかってんだぞ」
「妖精達にも働きかければいい。なんなら、
サモンがそう言うと、アズマは悲しそうな顔をした。
「……やめてくれ。俺たちゃお前をそんな風にするために、育てたんじゃねぇんだぜ。サモン、お前は人間だ。だから、俺たちから離れさせたんだ」
「私は、一向に構わなかったのだけれど。家族から引き離された辛さが、君たちに分かるかい?」
「俺たちだって、好きで手放したわけじゃねぇや! だがな、サモン。自分が何者かを見失っちまったら、誰も助けらんねぇ。分かってくれよ。だから俺たちは、お前が困ったら必ず手を貸すんじゃねぇか」
弟のわがままを窘めるように、アズマはサモンの頭をわしわしと撫でる。
サモンは「知っているとも」と言いつつも、やっぱり納得出来ないようだった。アズマは困り笑いした。そして、サモンを抱きしめる。
「ちゃーんと調べてくるよ。ツテだってあるし、俺は
「……わがままを言ってごめん。頼りにしてるよ」
サモンはアズマを抱きしめ返す。
サモンはきゅ、と目を強く瞑る。アズマはサモンの背中を、二回優しく叩いた。
サモンが目を開けると、アズマはいなかった。
風のように現れ、忽然と消える。自由なアズマに、サモンは「全く」と笑う。
「忙しないなぁ。……さてと、だいぶ早いが朝ご飯にしようか」
サモンはベッドを抜け出す。
畑の野菜を収穫しようと外に出ると、アズマが囁いた。
『イヴァンという名の獣人の子供が、お前に会いに来るぞ。魔法学科のレーガって奴を連れてな』
サモンは、畑の前で頭を抱えてしゃがみ込む。
またあいつが面倒事を持ってくるのかと思うと、頭が痛かった。
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