第3話 洗礼

 事務所は静かだった。

 鳴らない電話の前で僕はお茶をすすり、顧客名簿をパラパラとめくっていた。

 視線を上げると部長がPCを前に百面相している。

 その奥では栄養のよさそうな女子社員がお菓子を食べている。

 お互いに会話はなく、今にも壊れそうなエアコンの音だけが響いていた。

 印刷業界は厳しいと聞いてはいたが、それを裏付ける空気に思わず口元が緩む。

 ここに入社するにあたり、この業界のことは調べてはいた。

 印刷業界は不況の真っ只中で、どこが倒産したとかリストラしたとか、聞こえてくるのは暗い話ばかりだった。

 当然だと思った。今の時代、印刷需要がどれだけあるというのか……。

 情報はスマホで発信され、需要があっても小ロット小生産、最悪家庭用プリンタとラミネーター加工で間に合ってしまうのだ。こんなことは素人の僕にだってわかる。

 だが、社長に言わせれば「僕たちはシルクスクリーン印刷が主流だからね、後はやり方次第だよ」と強気の発言で鼓舞していた。まだまだ努力次第ではどうにかなると言いたいのだろう。

 たしかにオフセット印刷に比べ、印刷物を選ばないシルク印刷には独特の強みはある。木材、金属、プラスチック、何でも有りだ。

 渡されたパンフには、刷れない素材は水と空気と説明されていた。さすがに誇張しすぎだと思うが、どれも家庭用プリンタにまねできる芸当ではないのは確かである。

 しかし、そんな言葉とは裏腹に、社内の空気はなんとも言えぬ閉塞感で満たされていた。

 まったくやれやれである。

 僕は考えていた。ドラゴン印刷に営業としてどこまで付き合うのかを。

 正直なところ前職が殺し合いだったこともあり、ここではのんびりマイペースでいきたいと思っていた。

 心のリハビリというやつである。だからこそ、年収を下げてでも入社を決めたのだ。

 自分流がゆるされるなら尚のことである。

 

 「まあ、これで給金がもらえるなら上々だな」

 

 そんなやる気のない、ある意味において邪な考えに浸っていた僕だったが、つい先日、それを全否定するような発言を面接に立ち会っていた経理(加齢臭)から浴びせられ、思わず絶句したのだった。


「おう、田中君。きみ実績が出てないぞ?」

「はっ? 実績? まだ社内研修が終わってませんが?」

「社内研修? そんなもんがあるんか?」

「そんなもんて……」

「田中くんは大手出身だから無用だろう」

「いえいえ、御社のルールや売り物を学ぶための時間ですし」

「ルール? そんなもの無いぞ」

「……」


それをどこかで聞きつけたのだろう、同じ営業職の同輩が擦り寄り、ここぞとばかりに耳打ちをはじめた。


「ここは典型的ワンマン会社だから大変でしょう~田中さん、みんなシナプスが麻痺してますからねぇ~」

「シナプス? えっと、君はたしか……」

「あっ、僕は舌霧したきりです」

「舌霧さん?」

「いやぁ、僕も入社したときは大変でしたよ」


 舌霧は何故か嬉しそうだった。


「僕なんかは半年間放置されて、しょうがなく事務所で電話番をしてましたね……」

「えっ放置? えっと、まさか入社早々にイジメとか?」

「いやいや、単に社員の扱い方がわからないのだと思いますよ」

「わからない?」

「はい、社員教育という概念がありませんからね」

「えっ?」


 舌霧は辺りを伺い、PCモニターに身を潜め、やっと聞こえるような小声で話しを続けた。

 

「放任主義と役員は言ってますが、それは方便であって、実際は何をしていいのか社長を含め皆わからないんですよ。僕自身、営業はここが初めてだったんですが、なにも教えてもらえず苦労ばかりでしたし、社長も見習期間は放置され、部長も入社当時はやることなく車で昼寝していたそうですから」

「それはひどいな、なら今の顧客は自力で?」

「いえいえ、貰いものです。ここも全盛期は営業が8人いましたから、もう全員辞めてしまったんですが、彼らのおこぼれをいただいて今に至ります」

「そんな活発な時期があったんだ……」

「積極的にまわってたみたいですね、我が社には3千近くの顧客がいますと前社長から説明を受けましたから」

「ほう」

「問題はその後なんです」

「え?」


 僕も思わず小声になり、いつのまにか同じように身を潜めていた。

 

「実は15年程前に前社長が引退し、その息子が新社長となりまして。まあ、ここまでは個人会社にはよくある話なのですが、問題は息子の経歴で、営業経験は無く見習いとして入社し、1年ほどの事務所勤務を経て社長になったんですよ。順序を逸脱していると営業が抗議したのですが、所詮個人会社なんですね、家族優先の人事が変わることなど無く今に至ります」


 舌霧の曇った表情の前に僕は黙っていた。


「この衝突で営業がみな離反しまして、円満退社でなかったので何も引き継がれていないんです」

「なら皆さん素人みたいな?」

「まあ、遠からずといったところでしょうか」

「その後の対応は?」

「なにも」

「あらら、そういうのってすぐ広まるからね、不満からくる退職は特に尾を引くから……」

「いや、もう広まってますよ。本当かウソかお客様から『不義理のドラゴン』なんて陰口をいわれているとか、普通に聞くとカッコイイですが」

「不義理のドラゴンって……」

「ろくに客と会ってませんからね、社長が就任して15年、まだ息子が社長やってるの知らない客がいるぐらいですから……」

「えっマジですか……」


 僕は腕を組んで考え込んでいた。


「この様子だとまさか……いや、さすがにそれはないだろう、だがしかし……」

「どうしました?」


 舌霧は戸惑う僕を嬉しそうに見ていた。

 僕は僕でドラゴン印刷がどんな営業をしているのか想像できず頭を抱えていた。

 恐る恐るであるが、舌霧に先日の営業日報を見せてくれと頼んだ


「うわぁぁぁ!」


 わたされたシートにはこう書かれてある。


 A社アタック!

 B社アタック!

 C社アタック!

 D社アタック!


 なんだコレ、アタックとは洗剤じゃないよな?

 訪問という意味なのだろうか?

 この日報と称するメモには、社名とアタックのみで、成果どころか大雑把な時間すらも書かれてなかった。

 舌霧から部長の日報を参考にしていると聞かされ、さらに言葉を失う。

 部長曰く攻めの営業を表現しているとのこと……。

 

 『何を言っているのかわからねーと思うが、おれも何をされたのかわからなかった……頭がどうにかなりそうだった……催眠術だとか超スピードだとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ、もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……』


 思わず呟いたジョジョネタ「あ…ありのまま今起こった事を話すぜ!」だった。




 うそ、こんなのでいいのかここの営業は……。

 あまりものハードルの低さに僕の全身が震えていた。

 今までに経験したことのない、武者震いとはまた違う妙な震えだった。


「この印刷不況の中、残った者で顧客を維持するのはさぞかし大変だったろうねぇ。マニアルが無いのも頷けるというものだょ」

 

 僕の声は裏返っていた。

 その一方で彼ら特有の業(営業技術)に興味が沸く、怖い物見たさに近い感情だろう。

 

「田中さん。こんな会社なんで気楽にいきましょう。その間、経理のオッサンに無能と吹聴されますが大丈夫。ぼくは耐えられましたから!」


 舌霧は最高の笑顔で僕に答えた。


 

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