窮鼠、諦観す
橋本と、橋本が狙っているらしい優香と次の講義へ向かう途中、何気ない雑談にそれらしい返答をしていると不意に橋本がこちらを覗き込むように見てくる。
「そういえば、お前の家って駐車場ある?」
「ないよ。俺免許も持ってないし」
「えー車ないとそっちの方って不便じゃないの」
「いや、鍛え上げられた脚力で何とかなるから」
「確かに、益田くんって普段ゆるめの服でわかりにくいけど、けっこう筋肉質だよねー。スキニーとか似合いそう。普段もセンスいい服してるし、部屋とか絶対おしゃれそうだよね」
痛みのない茶髪を耳にかけながら全身を見て褒めてくる優香に、自分も結構力がある方だと橋本が解りやすく売り込んでいる。同意しつつさり気なく話題を彼へ移行させていく。平然と言葉を交わしながら内心冷や汗を流す。今部屋の事には触れないで欲しい。それに、先程からこちらの手に優香の手が軽くあたるのも嫌な気持ちに拍車がかかる。優香は周りの男には人気が高いが、俺はなんとなく苦手だった。確かに可愛い顔をしていると思うし、気が利いてノリも良い。だが被害妄想かもしれないが、時折値踏みするような視線に息が詰まる時があるのだ。特に用事もないのに連絡してくるのも終わりどころが見えなくて返すのが億劫になる。普通なら可愛い子に気がありそうなら喜ぶ所かもしれないが、高校で初めて出来た彼女が友達と浮気をしているのを発見してしまい別れて以来、あまりそういった事に意欲的になれない。部屋で重なった二人の姿と四つの目がこちらを向いたまま世界が凍結したような空気は忘れられそうにない。それに、今は彼女ができたら部屋に来たがるだろうという事も重くのしかかる。
早くこの二人が付き合ってくれればいいのに。歩きながら手が触れないよう離れても尚触れる小指に辟易しながら教室までの距離を測る。
今日七時に行ってもいいか。
二度目の連絡は全ての受講終わり、十八時にやってきた。指定の時間まで一時間もない。了承するのも迷いつつ校門に向かっていた時、正門に寄りかかっている八瀬が見えた。反射的に踵を返そうとしたが、目敏くこちらに気付いた奴が片手をあげて合図してくる。見つかってしまったからには仕方ないと諦めて側に寄るが、待ち構えていた事には抗議しようと口を開いた。
「あ、八瀬君じゃん」
何か言う前に後ろの方から声がかかった。帰るところだろう彩実がこちらに向かってくる。家にやってくる予定の一人だ。長い黒髪に大ぶりのピアスが揺れているのが印象的で、優香と仲がいいが、俺と個人的にやりとりする事はあまりない。
「なんか珍しい組み合わせじゃんね」
睫毛が長い目蓋を瞬かせて俺達を交互に見た彩実が八瀬の片腕を抱き込んで上目遣いで笑いかける。彩実はいつも男との距離が近いが、あからさまに絡んでいるのに少し驚いた。人気はあるが取っつき難い八瀬の空気にお構いなく接触している。
「何。益田といたら悪いか」
「そうじゃないって。何か珍しいなぁって思っただけ。てか待ち合わせてたんでしょ。そんなに仲良いとか知らなかったー。八瀬君も今度の宅飲み来ない?」
「ああ、益田の家でやる奴か」
ちらりとこちらを見た八瀬は何を考えているのか、短く行くと返答した。当日が更に憂鬱になった。
「え、マジ。来ると思ってなかったから嬉しい。じゃあさ、連絡先教えといてよ」
「別に益田が知ってるから問題ないだろ」
「何かあった時とか、知っといた方がいいじゃん」
「俺はそう思わない。必要ないものはデータでも極力持ちたくないから」
空気が凍り付く。こういう事が度々あるからこいつが嫌いだ。特別何もなければ連絡先くらい交換すればいいだろう。我を通して空気を悪くする意味が解らない。どう丸く収めようか考えていると、一足早く立ち直った彩実が酷いと冗談っぽく笑って去っていった。憮然とした顔をしている俺を見て流石に察したのか何も考えていないのか、自宅まで歩く途中はお互いに無言で歩く。電車が丁度出たばかりで次まで数分待つ間、隣の相変わらず感情が読めない顔に今更無言の空気が居心地悪くなり、ああいう態度は良くないし連絡先くらい教えたらいいだろうと意見すると、何でもない風でどうせすぐ消すものに手間をかけるのは無駄だと言い切った。こうもばっさりと言われてしまうと黙るしかない。宇宙人と交信したらこんな気持ちになるに違いない。
「でも今回はお前が空気読めない奴である意味良かったかも」
返事はないが、目がどうしてか聞いている。俺は少し前にあった友人宅での出来事を思い返してげんなりしながら答える。
「最近違う奴のとこで飲んでて、彩実とかもいたんだけど、夜中に皆もう寝落ちしてるなか目覚めてさ。トイレ行こうと思ったら何か廊下の方電気ついてて。確認したらついてたの風呂場だったんだけどさ」
「ああ、わかった。災難だったな」
「災難も災難だわ。改めて見たら雑魚寝してる人数が二人足りないって気付いて。トイレが風呂のすぐ近くだから入ったらバレるし、音をたてないように玄関から出てコンビニに走ったしな。その間もずっと二人の声は漏れてくるし。何が最悪かって彩実も相手の男もそこの家主じゃないんだぞ。しかもあいつらお互い付き合ってる奴がいてリビングで寝てるし。気まずくていつ戻っていいか判んないし」
一息に言って、今まで誰にも言えなかった不満をつい吐露し過ぎたと慌てたが、八瀬は淡々と相槌を打つだけだった。興味なさそうな様子から誰にも言いそうにないのは有難い。そもそも誰かと一緒にいるところを見たことがないから杞憂だったか。
「風呂場でそういうのは関心しないな」
ともかく八瀬が彩実に靡かなければ家でそういった悲劇がうまれる確率が少し下がる。そう思っていると唐突に八瀬が言うのでこちらも目線だけで先を促す。
「湯はタンパク質が凝固するからな。掃除が手間だ」
「おい、想像させるような事言うなよ」
宇宙人がここにいるから誰か捕まえてくれないだろうか。ポケットの携帯が震えた。確認すると彩実から八瀬くんの連絡先教えてと絵文字たっぷりなメッセージが届いていた。この世には宇宙人しかいなくなってしまったのだろうか。心臓が強すぎる。
その後帰宅するまで再び無言で過ごし、鍵を開ける段になってやはり人を入れるのを躊躇するが、背中に感じる圧に負けて少々乱雑に扉を開けた。自分の部屋なのに、人がいると落ち着かない。八瀬に対して罪悪感を抱く必要などない筈と考えても、やはり帰宅した時の安堵感は湧いてこない。そもそも、まだ今日来ていいと了承していないではないか。待ち伏せされた事も含め言ってやろうと部屋に上がり振り返ると、後に続いて入ってきた八瀬が扉を閉め、思ったより距離を詰めてくるのに焦ってしまい勢いを削がれた。室内が暗くなっても微かに解る目がこちらを見ているのに無意識に喉が鳴る。こいつといるといつにない空気に包まれて身が竦む。
「なぁ」
「な、なに」
「電気、つけないのか」
言われて急いで玄関脇のスイッチを押す。何故か込み上げる恥ずかしさに、苛々して当たるようにお前がつければ良いだろと言えば、家主はお前だろうと返ってくる。ずかずか踏み込んでおいてなにを今更と言い返しそうになったが、何を言ってもこちらが不利になりそうで押し黙った。
「今日は時間があるから居間以外を片付けてしまおう。益田は予定何かあるのか」
「いや、ないからここにいるんだけど」
「明日は朝から学校だけか」
「まぁ。え、なに」
「なら遅くなっても構わないな」
淡々と鞄からゴミ袋と軍手を出し、話しは終わったと作業に入る姿勢の八瀬が一つに空気を入れて袋を広げている。そこまでして、思い出したように物を避けながら部屋の隅に向かうと、脱衣所のない風呂場を開けて何かを確認している。
「流石にそこは散らかってないって」
「使えそうか確認しただけだ」
「馬鹿にしてんのかよ」
確かに物が少し多いが生活ができなくなる部分まで浸食していない。無神経だと非難すると、違うと返答された。
「俺は少し黴にアレルギーがあるらしいから一応な。こういう単身用住宅は換気が悪くて黒黴が発生しやすいからな」
八瀬がアレルギーだからなんだと言うのだろうか。風呂場に片付ける物がない以上例え黴があろうと立ち入らなければいいではないか。むっとしていると、風呂の戸を閉じ鞄に近寄ると、衣類を取り出して見せてくる。
「遅くまでやると言っただろう。泊まるから風呂借りるぞ」
今、何と言ったのだろうか。たっぷり一分は固まってしまった。泊まる。何処に。
「聞いてない。泊まって良いなんて許可した覚えない」
「遅くまでやるって言ったろ。今からだと終電までやってもたいして進まないしな。居間に手をつけるまで
は一気に進めた方がいい。それに家に帰るとしたらここからは少し遠いから作業時間がより短い」
理解したかと衣類を鞄に戻すと、始めるからお前も荷物を降ろせと促してくる。部屋に入れている現状も納得していないのにこいつとそんなに過ごすなんて冗談ではない。しかし何かしらの交換条件があるらしいとはいえ、今のところ不本意な形ではあるがただ働きをさせている以上強くも出られない。何とかそれらしい断り文句を探す。
「まだ片付いてないし、客用の布団だってない。無理だって。来てもらって悪いけど、今日は帰ってくれ」
「ダイニング部分は今から片付けるから問題ない。それに、床で寝るのも俺は平気だから気遣いはいらない」
「そうじゃなくて」
「早く片付けないと、夕飯が遅くなる。これ以上の疑問がないならさっさと始めるぞ」
そう言ってガス台周りを触り始めた八瀬の背中にかける言葉が見つからず、聞こえるように溜息を吐いてそちらに向かった。何を言っても聞かないのを察したのと、確かに腹は空腹を訴えているし、喋っているよりやる事を済ませて何か食べに外に出たい。泊まる事は以前として納得していないが、居間とここを隔てる戸がある事で一応寝る時まで顔を見なくて済むだろうという妥協。それにこの長身が床に寝転がって翌朝節々を痛める姿が見られると思うことで溜飲を下げることにしたのだった。
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