窮鼠、誘惑に負ける

 憂鬱な事が待っている時間はすぐに過ぎる。気付けば全ての講義は終了しており、のろのろと正門をくぐった。

 もの凄く時間をかけて帰ると、家の前で八瀬がしゃがみ込んでいる。よし。やはり部屋に入れず今日こそきっぱり断ろう。目の前まで行くと、こちらを切れ長の目が見上げて、すっと立ち上がる。しゃがんでいる時には気付かなかったが、何やら手にしているようだ。

 ん。と差し出された物を反射的に掴むと、缶のミルクティーだった。ああ、ともつかない相槌未満の声を漏らす俺に何か言う事もなく、八瀬は立っていた扉の前から一歩引いてそこが開けられるのを待っている。

 缶を握り締めたまま、鍵を取り出して開けると、自然な動作で後ろから扉を支えられる。中に入れるつもりはなかったが、部屋に入れてしまった方が誰にも聞かれる心配もないし、いいかもしれない。もう一度見られてしまったのだし。断るのはどこでもできるし。

 言い訳のような事を頭で思いながら、靴を脱ぐと、当然のように後ろから同じく靴を脱ぐ音がする。リュックを下ろして振り返ると、八瀬も鞄から半透明と透明のゴミ袋を一枚ずつ出すと、玄関に鞄だけ置いてこちらを見る。

「座る場所ないし、とりあえず玄関近くから物どける。透明な方に要る物まとめて、ゴミはこっちな」

 半透明な方を揺らして伝えると、始めるぞ、と八瀬は薄手のジャケットも脱いで鞄の上に置き、俺の行動を待った。

 話をするつもりがいきなりさぁ片付けるぞと迫られて、どうしていいか解らない。断りもせず行動するでもない俺を見て、八瀬は足元に置いてあった雑誌を持ち上げると目の前に掲げてきた。

「何からやっていいか解らないなら、そこにいてくれたらいいから。俺が一つずつ聞いていくから、いるかどうかだけ答えて。ゆっくりでいいから」

 気遣われている。一人暮らしが始まって、気にかけてもらえることがあっただろうか。よく解らない気持ちが込み上げてきそうになるのを抑えて、座る場所を確保するだけだし。と掲げられた雑誌に目をやった。

 大学生の男が多く買っているファッション雑誌。爽やかな路線のそれは淡い色が中心のものだ。

「これ、結構最近のだけど、そこらに積まれてるやつも含めてそんな読んでる感じじゃないな。いるのか」

「これ読んでないと、何買っていいか解らないし」

「じゃあ、最新号だけ残して残りは捨てていいよな」

 灰と黒と白。それらの服をシンプルに組み合わせている事が多く、顔と体格も相まって大人びた印象が強いこいつは、かなり目立つ。雑誌とか読んでいるんだろうか。返事を待たずに鞄から出した紐で旧号を縛っているのを眺めながら何となく聞いてみた。

「別に。良いなと思ったもの見つけたら買うって感じ。そんなこだわりないな」

「流行りとか、気になんないの」

「全然。そもそも流行りって、誰の何を基準にしてるのか解らないし。好きなの着ればいいんじゃないかって思うけどな。流行りそのものが好きってならそれもいいと思う。益田は流行ってるのが好きなのか」

「別に、そういう訳じゃないけど」

 こういうところが自分とは真反対だと思う。誰にも縛られず自由に。言うのは簡単で、実際はわざと階段を踏み外すように難しい。列から抜けるのも、踏み外して怪我をするもの怖いじゃないか。

 思っても、特に好きで読んでいない真新しい雑誌が無性に恥ずかしい。個性を獲得してます。周りは気になりませんという態度でいられると余計に。最新の二冊以外、積み重なって崩れていた雑誌が八瀬の手によってまとめられ隅に置かれる。

「で、次はこれか。漫画の週刊誌とか単行本とか。ここらは本とかばっかだな。残すなら本棚もう少し買った方がいい。本当にいるならだけど」

 そういえば玄関周りは本等ばかりが散らばっている。言われるまで意識もしていなくて気付かなかった。八瀬が単行本、週刊誌、音楽雑誌に分けていく。多い量に、そのまま立っているだけなのも駄目な気がして、俺も八瀬を真似て手伝いをする。巻や発行順を揃えながらの作業は一時間ほどかかった。

 あと少しというところで手にとった一冊を眺める。他の本もそうだが、全てさして読んだ覚えがない。それどころか単行本に至ってはビニール包装がかかった物すら多々ある。

「なぁ、お前万引きの常習者か」

 言われたことがすぐに理解できなかったが、理解が追いつくとそんな訳ないだろ、と即座に否定の言葉が出た。

「中古で買ったのも多いみたいだけど、これほとんど封を切ってもない新品だろ」

「…読む時間がないだけだから」

 そうか、とさして気にするでもない返事だけして淡々と仕訳けられていく。やはり仕事で慣れているからか手際がいい。あっという間に一応人が二人いても問題ないくらいには片付いた。とはいえ狭いのに変わりはない。膝がつきそうな距離で向かいあうと、気まずい。そうだ、断らないと。

「あのさ、本当にもういいから。放っておいて」

「この雑誌とかさ、お前の趣味じゃないだろ」

 言われて黙する。趣味かと言われれば解らないが、みんなそうじゃないのか。高校の同級生の言葉が急に蘇る。一人暮らし二年になっても何もない部屋、たまり場にしていた級友達が笑うのだ。お前の部屋には何もないな。趣味も個性もないのか、つまらないやつだ、と。

 やってしまったと思った。みんなを真似て、何がいるのかを見て。だってそうしないと。みんなと違えてしまうじゃないか。顔も思い出せない彼等の笑い声がするようだ。

「おい。大丈夫か」

「別に。何もない。とにかく、もういいだろ。早く出て行ってくれないか」

 思考に沈んでいたようで八瀬がいる事すら忘れていた。声をかけられてはっとした。そうだ、早く奴に出て行ってもらわないといけない。部屋も暗くなっている。夜まで灯りをつけるのすら忘れて作業してくれたのに悪いが、そもそも勝手にやり出した側の責任だし。改めて断りを告げようとした時、また腰を折られる。

「そういえば。こちらが提示したい条件なんだけど」

 八瀬が両方にメリットがあれば安心できるんだろ、と近付いてくる。太ももに筋張った手が乗り上げてくるが、謎の圧に抵抗を忘れる。その眼が、見たことのない翳をもって光るから。

「絶対に黙っているって確約があれば安心できるんだろ。なら交換条件に、僕の秘密を打ち明けるから、協力してほしい」

 この誰からも注目される男の、秘密。それは自分のことを別にしても蠱惑的に映った。人の秘密はいつだって無責任な位置から見たいものだろう。ただし、協力という言葉がこの先を聞くことを躊躇させる。つまり関わりない場所から知ることではないという事だ。考えあぐねている間にも、こちらの返答を待っている。

 積み上がった本の束。あんなに何も片付かなかった部屋にできた少しの隙間。傍らに押しかけた八瀬の持ってきたミルクティーの缶。部屋に誰かが来るまでの猶予はそうない。なら、もういいのではないか。嫌いな男でも。むしろ嫌いだからこそ、その後は今まで通り関わらなければいいのだ。

 結局はまた業者を呼ぶことの面倒さと、費用の浮く条件、なにより普段人と関わらなさそうな男の誰もが知りたがる秘密につられ、了承してしまった。

「そうか。なら、まずは部屋を少し片づけてからだな」

「は。今教えてくれるんじゃないのかよ」

「それでもいいが。教えたところで現状その条件を満たせないからな。どのみちこの取引を飲んでくれるなら、遅くてもお前にはなんら損はないだろ」

 八瀬はそういうと、まとめた不用品を持てる分だけ持ってさっさと帰ってしまった。帰り際に、約束を忘れるなよ。また連絡するとだけ言い残して。もうあの翳はなくなっていたが、何故か俺の背筋はぞわぞわと悪寒が走っていた。

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