窮鼠、猫は狐
次の休みは?
奴から連絡があったのは火曜日になってからだった。メッセージの到着を知らせる軽快な通知音が、日曜日の悪夢から地獄の呼び声に聞こえて一々怯えては安堵する繰り返しだったが、ついに地獄の使者が到着してしまった。通知には、こちらの休みを問う一文が簡潔に書かれていた。本当は今日、大学が終わった後空いているが、教えたくない。そもそも返信したくない。
奴が連絡先を交換するやいなや、それまでの強引さが嘘のように颯爽と俺の部屋から出て行った後、ふらふらと寝床に向かい崩れるように座り込んだ。携帯を放り投げ、半畳しかない布団に隙間ができるくらい小さく蹲って処理の追いつかない頭を整理しようと躍起になり、感情がついてこず奇声を漏らして振り出しに戻る数時間を過ごした。ため息も出ない澱んだ体を引きずってバイトに向かい、家に帰って来ても一睡も出来ずに登校した月曜日はそれは酷かった。講義も出席に名前を書いただけで、何一つ聞いていなかったと言っていい。今も寝不足で考えなどまともにまとまってはいないが、それでも奴から返信が来る前に決めた事が一つある。
数百グラムの物が、今は何キロにも感じる端末にこちらも簡潔な文章を打ち込む。
今日空いてる。そっちが終わったら家に来て。
それだけを打つと、まだ午後に講義が残っているが迷わず家路を目指す。連絡が来たのが休んでも問題ない授業ばかりの日で良かった。まともに聞ける自信もない授業に出るより、少しでも仮眠を取っておきたい。眠れなくても最悪横になっているだけでも違う筈だ。
懸念した割に、寝不足と心労からか帰ってあっさり意識を手放した俺は、奴が押したチャイムで飛び起きた。時計を確認すると十九時を少し回ったところ。結構眠れたらしい。疲れは全くとれた感じはしないが、意識は幾分かすっきりした気がする。
決心をして嫌々扉を開けると、清掃業者の服ではなく私服の八瀬が立っていた。俺は靴を履いて八瀬の横に立つと、中に入るんじゃないのかと思っているのか、少し首を傾けている奴を連れて最寄りのファミレスへと向かった。
夕飯時だけあって、チェーン店のファミレスは満席ではないものの高校生やら家族連れで賑わっている。四人掛けの席に案内されると二人して席に着く。状況を理解していないのか、それとも気にしていないのか、早速八瀬はメニュー表を開いて眺めている。特に質問もしてこないで自然に俺にもメニュー表を渡してきた。そういう所作のさり気無さが女子に人気なのだろうか。舌打ちが漏れそうになった。
何も注文しないのも変なのでコーヒーを注文するつもりでここに来たが、八瀬が注文したのはさば定食で、つられて俺も明太子スパを店員に頼んだ。そう言えば今日は何も食べていなかったし、自分だけコーヒーだけだといかにも僕は貴方が気になってご飯も喉を通りませんよ。と主張している様な気がした。
お互いの注文が届くまで黙っていたが、運ばれてきたさばの骨を外す八瀬を眺めながら、ついに俺は決心して口を開いた。
「あの、違約金を払うから、もう近寄らないでほしいんだけど」
「どうして」
乾いた喉から決死の思いで出した少し上ずってしまった声に、すぐさま返答されてしまう。
「どうしてって」
「理由も言えないのに断ってるの」
言い方に苛々する。そもそも理由も何も、何となく嫌とか、そういう気持ちの曖昧な部分って誰にでもあるだろう。頭では縦横無尽に相手を説き伏せるも、何故か自分が悪い部分もあるような気がしてしまう。しかし俺は決して変な事を言ってる訳じゃない。ここでどもったらいけない。
「そもそも、お前バイトで来たんだろ。それを俺が断っただけじゃん。それなのに、お金いならいとか、それってバイトじゃなく来るって事だろ。別に仲良くもないのに変だろ。正直、自分の家にあんまり知らない奴なんか入れたくない」
周りに溶け込んで生きてきた俺は、こんなに他人に強く何かを言った事がない。多少早口で捲し立ててしまった。慣れない事に手が少し震える。八瀬は定食についている味噌汁を啜ると、特に何でもないふうに口を開いた。
「益田は一人であれ片付けられるの。もしくは他の業者間に合ったとして、すぐ終わると思ってるの」
「そんなのどこの業者も同じようなものだろ。お前の所で二時間なら、それくらいで終わるだろ普通」
「終わらないよ」
「え?」
「あのタイプはすぐ終わらない」
俺の言葉に何一つまともに返答が無い気がするが、一応清掃業者の終わらないという言葉に注意をひかれる。
「……なんで」
「多分今説明してもあんまり解らないと思う。けど、お前の部屋はほぼゴミがない。そういう所は時間がかかる。業者入れても延長料金でかなりかかるか、益田が後々後悔するぞ」
淡々と告げられる明確な理由も提示されていない意見は、それでも不思議な事に否定の文句が言えない。専門職の見解だからだろうか、ぼんやりと絶対的にその言葉が間違っていない気がしてしまう。
「だとしても、自分で何とかする。お前には関係ないだろ」
「自分でとか絶対に無理だから。やろうとして無理だったんだろ。別に俺が誰かに言う訳でもないし、金もかからない。何が引っかかってる訳。他人に家に入られるのが嫌だとしたら、業者入れるのと変わんないと思うけど」
全然知らない他人の業者と、同じ大学の知り合いは全く違うのだが。もうその辺りを言っても何かしら打ち返されそうな気がする。何が引っかかっているのか。何が一番嫌なのか。
「そもそも、お前に何もメリットがないだろ」
そうだ。これだ。自分で口に出して納得する。八瀬にとっての得が何もないのに、関わってこようとするのが気味が悪いのだ。それに一方にしかないメリットは、一方にとって後の借りや弱みになる。
「成る程。俺は別に気にしないんだけど。それなら、こちらにもメリットがあればお前は納得するのか」
別にそういう訳ではないが、というか単純に関わらないでいてくれたらいいだけなんだが。
「別に…というか、どうしてそんなに関わってこようとする訳?」
「まぁ、それは何となく。とりあえず、俺にもメリットがあればいいのか。解った」
一瞬言い淀んだ気がするが、八瀬は一人勝手に締めくくっていつの間にか食べ終わっていた定食の皿を店員に下げてもらっている。机には冷え切った手付かずの明太子スパが鎮座していた。
八瀬にじっと見られながら半ば塊になった麺を口に運ぶ試練のようなひと時を終え、俺は何故か無言でついてくる八瀬と家路を辿っていた。何故か、ではない、確実にこのまま家の中までついてくるだろう。
もう何を言っても無駄な気がする。田舎とはいえ道の真ん中で怒鳴って目立ちたくないし、足に自信はあるが、この男は走ってもまけそうな気がしない。この一時間ほどで消耗しきっていた俺は、半ば諦め半分で家の前まで辿り着いた。
「益田、明日休みか」
「え、ああまぁ……」
「じゃあ明日、また来る」
「入るんじゃないのか」
「入っていいのか?」
「いや、嫌だけど」
即答すると八瀬は少し笑って、帰っていった。笑えたのかあいつ。家に入るつもりがないなら、なんで玄関前までついて来たのだろうか。まさか夜道を送っていったつもりか。
思わずその場で頭を振った。成人した男が男を心配で送るなんて、ホラーだ。怖すぎる。なら気まぐれについて来たのか。もう行動全ての訳が解らない。
寝てしまおう。問題を先送りにして、薄くて三分の一は物に埋まった布団に突っ伏した。風呂はもう明日でいい。
翌朝、今日が休みな事を言ってしまった迂闊さに思い至り頭を抱え、そういえば何故俺がバイトしている事を知っているのか疑問に思った。思えば最初から今日は休みなのかと聞いてきていた。学校だけ通っていると思うならこの聞き方はしない。気になると落ち着かなくて、嫌々携帯で質問すると、学食で飲み会の日程決めてる時に言ってたの聞こえた。とすぐ返答があった。二度と学食ではプライベートな事は漏らすまい。
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