窮鼠、猫
三日間調べ続け、特殊清掃の費用、かかる時間等は解った。意外とこういった専門的な清掃会社は多く、最寄り駅近くにも一軒あった。しかし近場は選ばない。流石に知人が働いている可能性は無きに等しいだろうが、万が一その会社の人物の誰かと、交友関係に繋がりがないとも限らない。悪い方へはいくらだって想像が働く。
画面と睨み合いながら、やっと決心して一社に予約の連絡を入れた。大学や家から遠めの所で、料金が良心的。一室しかない部屋なら、人員も少数で予定見積もり内で済みそうだ。
あんなに苦労しても片付かなかったこの部屋が、どうやら本人立ち会いの下、二人で二時間もあれば終わる予定らしい。頼んでしまった安堵と少しの後悔を抱えたまま、いつものように背を曲げて横たわると、次の日曜を待った。
予約した数日後の日曜日、大学は休みでも夕方からはバイトがある。余裕をもって昼前にお願いしたが、緊張なのか早朝に目が覚めてしまった。
業者が来る前に少しでも片付けておいた方がいいのだろうか。下手に手をつけても、人が来るからと焦ってやったように見られる気がする。事実そうなのだが。
予約してからというもの、なにかした方が良いのか、どうせやってもらうのだから僅かをどうこうしても無駄ではないか。そうやって悩んでは頼んでしまった後悔が膨らんで、何も出来ずに当日を迎えてしまった。今ですら、立ち会う服装は何が無難かを考えてしまう。つくづく自分は人の目に弱い。見栄えをまともにしようとしたところで、こんな恥と異常の塊である内部を晒すのだから、本当に全て今更だ。
とうとう恐れていた呼び鈴が短く一度鳴ってしまった。静寂の中で酷く緊張していた体が鼓動ごと跳ねる。足が竦む。呼んだくせに出たくない。
それでもなんとか玄関に辿り着き、扉を細く開けた。最後まで見られる事を極力避けようとは我ながら滑稽だ。自然と俯き加減になったまま、業者の挨拶を聞く。
「こんにちは。この度はご利用有難うございます。みどり清掃サービスの村上です。本日十一時から予約頂いております益田健一様で間違いありませんでしょうか。問題なければお部屋の拝見させて頂きたいのですが」
人当たりの良い声に少し肩の力を抜いて、了承を返そうと顔を上げると、村上さんと名乗った初老の人物の後ろに、もう一人の作業員が控えていた。その姿を確認し、理解するより早く俺は素早く扉を閉めた。
今見た光景を信じられない。何故だ。よりにもよって。
真っ白になった脳内をおいて、体は確認しようとドアスコープを覗く。気のせいであれと願うも、やはり小さな視界に映るのは村上さんと、何を考えているのか解らない顔で突っ立っている同級生の八瀬緑だった。
何も考えられずにドアスコープ越しの八瀬を凝視していると、部屋にチャイムが響いた。緊張でか爆音に聞こえた音に肩を大きく揺らすと、取っ手に添えたままの手の爪が当たって小さく鳴った。慌てて手を離すと、借金取りに追われている心地で息を殺して、困った顔の村上さんがチャイムのある方へ腕を伸ばしているのを確認する。
「あのー。益田さん。どうかされましたか?」
こちらに響かせるように朗らかな声がかかる。何を応えていいか解らず無言でいると、ずっと動かなかった八瀬が村上さんの肩を叩きドアスコープの視界から連れたって消えた。
このまま帰ってくれるのだろうか。後で清掃会社宛に謝罪のメールを送ろう。大学のことはどうしようか。本人に口止めするべきか。いや、自ら話題にするよりそのまま放っておいた方がいいかもしれない。
ぐるぐると考えている間にも、目はずっとドアスコープに固定されている。平和だった視界に、再び人影が。今度は八瀬一人が戻ってきていた。息が止まる。
「益田、まだ玄関にいるか。契約キャンセルならキャンセルで、その料金と本人のサインがいるんだけど。それだけ済ませてくれない」
低い声がいつもより大きく発せられる。キャンセル料。確かにそんな事がネットの規約に書かれていた気がする。それだけ支払えば八瀬は帰ってくれるようだ。それなら早く支払って、これからの事は一人で改めて考えればいい。兎に角視界から奴を遠ざけて緊張状態から脱したくて、近くに放ってあった鞄から財布を出すとゆっくりと薄く玄関の扉を開けた。
十センチも開けていないドアの隙間、下を向いたままの視界に、ガンっとドアとぶつかる音をたててグレーのスニーカーが差し込まれた。八瀬が隙間を閉じられないように足をいれてきたのだ。やくざか。咄嗟に締めようとドアノブにかけた手に力を込めて引っ張っていると、次いで差し込まれた手が開けようと縁に引っ掛けられる。隙間からは、八瀬の半身がこちらを無感動な目で見下ろしていた。やくざに違いない。
少しの力比べは緊張に汗ばんだ手からドアノブが滑って離れた為に負けた。大きく開け放された玄関から入る日光で目を眇め、人が来るにも関わらず電気をつけていなかった事に今更気付く。明るみになっているだろう背面の室内を見られたのを、八瀬が自分を通り越した先に視線をやっている姿で察した。
恥ずかしさでしばし呆然としたが、一気に苛立ちが湧き上がり、八瀬を睨む。サインをして、金を払えばいいのではなかったか。何故わざわざ暴いて見るような真似をするのか。一言怒鳴ってやろうと口を開いた時、突然奴は俺を押し退け、あろう事か靴まで脱いで部屋に侵入してしまった。
あまりの事に開きかけた口もそのままに眺めていると、支えがなくなったドアが閉まった。電気を無意識につけていなかった部屋が暗くなる。ベランダに繋がっている窓にかけた遮光性ではないカーテンから薄明かりは漏れているものの、目が慣れない内は見え辛い。
「……電気」
「え?」
「見えないから。電気つけて」
言われるまま電気のスイッチを押すと、明るくなった部屋を更に奥に進んでいく。つい請われるまま電気をつけてしまったが、不遜な物言いにも余計に腹が立つ。
「おい。何なんだよ。金を払うからさっさと出て行ってくれ」
「におい」
「はぁ?」
「臭い。しないな。食品類のゴミ溜め込むタイプじゃないのか」
答えるのも馬鹿らしい。追い出してやろうと雑に腕を掴んでやった。わざと力を込めて握ってやったのは気の小さい俺のせめてもの復讐だ。痣でもできればいいのに。そのまま外まで引っ張ってやろうとしたら、空いている奴の右手が左手を掴んでいる俺の腕を掴み返してきた。怯むと、奴はぐっと身をこちらに寄せてくる。顔が近い。線が細いくせに力も強い。
「なぁ。片付けたいんだろ。この部屋」
「うるさい。お前に関係ないだろ。さっさと」
「なら、俺が一緒に片付けてやろうか」
「いや、いらないから。出て行けって言ってるだろ」
「片付けないといけないんだろ。もう期限まで一ヶ月もないんじゃないか」
何故飲み会の事を知っているんだ。疑問が浮かんだが、そう言えばこの話の発端は学食で、そこに八瀬もいたんだった。隣に。聞こえていても当然の距離にいたが、興味ありませんといった態度で会話に入っていなかった奴から仲間内の会話を話題に出されると気味が悪い。単に相手がこいつだからかもしれないが、不快にはっきりと眉間に皺が寄るのが解る。
「今から違う業者探して頼むのも時間かかるだろ。キャンセル料も取らないし、金も貰わない。悪い話じゃないだろ。それに、そしたらもうこれ以上この部屋人に見せなくて済むぞ」
俺なら誰にもこの事を漏らさない。八瀬の言葉に更に眉間の皺が深くなる。この部屋を人に見られたくないのは、これまでの過剰反応で露見しているだろう。清掃業者なのだから、他にも俺みたいな人を多く見てきたのだろうか。それが一番怖いだろうと断言する口調だった。
「別に」
そんなの気にならない。そう虚勢を張ろうとして言葉に詰まる。帽子のつばが影になって光の当たらない奴の双眼が、相変わらず無感動に見えるのに、今は寒気が走るほど恐ろしく映る。
「とりあえず今日は待たせてる村上さん。さっきの連れな。がいるから一旦帰る」
連絡先教えてくれたら。そう言って携帯を取り出す八瀬に、俺は開放された腕をさすって迷った。連絡先をとても交換したくない。むしろこいつに会いたくなさ過ぎて明日から大学に行きたくないというのに。
しかし、携帯を持ったまま微動だにしない様子からして、交換しなければ確実にこいつは帰らないだろう。次に何をしてくるか解らない人物と二人きりの怖さなんて知りたくなかった。
逡巡したものの、連絡先さえ渡してしまえばこの場から消えてくれる。その場しのぎの誘惑にあっさり陥落した俺は、黙って携帯をポケットから取り出した。
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