スキマ
朽縄ロ忌
窮鼠、探す
一人暮らしが始まってからもう五年経っただろうか。ここに越してきた当初と比べて見る影もない部屋を眺めながら、俺はまた溜息にもならない息を漏らした。
至って普通の家庭だったと思う。収入の安定した両親の元、俺は普通に育ち、普通の高校へ通い、並みの大学に進学した。兄弟は年の近い妹と弟がいる。仲はそこそこ。
友人も決して少なくない。興味もないまま小学生で入った運動部は群れる事が好きで、その輪に溶け込んでいれば人付き合いは楽だった。惰性でそのまま続けた部活で推薦を受け、遠い高校に進学。当然そのまま運動部に入っていたからか、友人はむしろ多い方だろう。
高校進学時に何となく寮は嫌で、両親に頼み込んでバイトをすることを条件にした一人暮らしは同級生等のたまり場になったが、それでも快適だった。
部活に力を入れている学校だけあって、広大なグラウンド付き校舎は都会から外れた場所にあった。広い土地を必要とする為か、または生徒を俗世から引き離す為か、うんざりする程長い坂道の上。そんな山に近い校舎の近くに借りた部屋は遊びに出るには不便だったが、引っ越すのが面倒で、三駅隣の大学に受かり進学した今もそのまま住んでいる。
本当に何もない。どこを切り取って見ても平均的な人生だったと思う。最近まで、それは変わらず続いていると信じて疑わなかった。
最近増えた外食、学校帰りにそこそこ行く年季の入った安い食堂に入り、蕎麦をすする。謎のサランラップに巻かれたテレビの液晶画面を見ていて、思わず箸が止まった。大掃除特集だとかで取材を受けていた清掃会社が、カメラマンを連れて依頼主の家を訪れる。モザイクのかかった依頼主は若い女で、軽い調子で清掃員と会話している。どうやらリピーターらしい。挨拶も終わって中に入ったカメラマンが映したのは、床の全く見えないまでに物で埋め尽くされた所謂ゴミ屋敷というやつだった。
客の誰かが飯が不味くなると厨房に声をかけると、すぐにテレビは違う番組に変わった。俺は蕎麦が延びきって弾力が無くなるまで、そのまま固まっていた。
食欲は戻らず半分も残ったままの蕎麦を置いて、ふらふらと家路に着く。鍵を開けて電気をつけると、先程のテレビから聞こえた非難めいたどよめきが、自分にも浴びせられた気がした。目の前に広がる光景は、間違いなくゴミ屋敷だった。
大学ではもう競技をしていない。飲み会が本分かと思われるサークルにすら入っていないが、対人関係に問題がある訳ではないから友人は相変わらず多い方だろう。大勢に紛れる事の楽さを知ってしまえば、自然と人の輪に溶け込む術を覚えるものだ。地位も嫌な思いをしないくらいを維持している。
明るくて、ノリの良いそこそこの男。それが俺の平均的な評価だろう。一般的な流行りは常にチェックしているし、どうすれば輪を外されないのか、何が無難かを考えて動いている手前、それは自身も納得いく評価だと言えた。
よく過ごす連中といつものように学食で昼食をとっていると、不意に誰かが横に座った。八人掛けのテーブルが幾つも並んだ学食は、味も良くて量も中々、それに何といっても安い。席数も多いが利用者も多く、早くしないとすぐに満席になる。だから別に相席は普通だが、今はまだそこそこ空いている。隣に来るなら一言あってもいいのではないか。表情は変えずに座った相手を確認すると、それは同じ学年の八瀬緑だった。相手が八瀬だと解った瞬間、若干嫌な顔になったが、八瀬は気付かなかったのか眼中にないのか、卵と出汁が染み込んだカツに箸を伸ばしている。
俺を含め六人で席に座っていた他の面々が八瀬に何事か話しかけている。奴は面倒臭そうな気配を隠そうともせずに短く返答しているが、気付けば輪の中心は奴になっていた。
俺は黙々と蕎麦をすすっている。上に乗っているとろろも手伝って、早めに食べ終えると立ち上がった。比較的仲の良い橋本が声をかけてくる。
「あれ。健一もう行くの?」
「ああ。次の講義までちょっと課題の調べ物しに行ってくる。」
単位落としそうなんだよね。なんて笑ってから別れると、まっすぐ図書室まで向かう。まだ昼時で人の少ない図書室は静かだ。適当に座って頬杖を突いた。まだ昼食をとり始めたばかりで急にあの場から抜け出すのは少し不自然だったかもしれないが、一人になれてほっとする。
俺は八瀬が大嫌いだった。いつも人から声をかけられているが、決して自分から能動的には人と馴れ合わない。見た目は確かに良い。彼は身長も高ければ線も細く、さらっとした黒い髪に小さい顔が収まっている。顔も悪くはないが、眠たそうに下がっている瞼から覗く目は鋭い。睨んでいるようにも見える目も、女友達曰く余裕があって色気もあるそうだ。見てくれだけ抜き出せば如何にも今時で人気の出る方だが、あんなに愛想のない奴のどこが良いのか解らない。人を見透かしたように一歩引いた位置から澄まして見ている事も気に食わなければ、そんな態度にも関わらず労せずに人に囲まれる事も不愉快でしかない。
翌日の昼も、何故か八瀬は俺の横にいた。今度は席を探す八瀬に俺以外が声をかけて八瀬は隣に腰を下ろした。またか、と思って早めに食べ終えようにも、今日は月見うどんにしてしまった。猫舌にはこの熱さを前に食べるスピードをあまり変えられない。それでも黙々と食べていると、他に話しかけられていた八瀬がじっとこちらを見ているのに気付くのが遅れた。お前さ、と周りの声を無視してこちらを覗き込む。
「俺の事、嫌いなの」
俺達のテーブルだけが一気に静まり返る。ほら、これだから嫌いなんだ。空気の読めない発言にヒヤリとするし、苛々する。心外ですといった顔で八瀬を見ると、爽やかな作り笑いで答えてやる。
「どうしたいきなり。そんな訳無いだろ。俺は全人類愛してるんだから、お前も好きだよ」
「そうか。俺がいると早くどっか行こうとするだろ」
「昨日の事か?単位落としそうだったからだし八瀬は関係ないって。大体、麺類好きだからさ、周りより食べるの早いんだよ。俺、全麺類も愛してるから」
凍りついていた周りが吹き出すと、空気は何とか元に戻った。八瀬だけは無表情でそうか。とだけ言って定食の鯵を口に運んだ。もう俺には興味を失ったようだ。
心中で口汚く罵ったが、こちらも隣を意識しないようにする。この空気の後では一人で席を立つと浮いてしまうし、うどんは熱い。ゆっくりと食べようと、俺は黄身を割った。半熟の黄身がどろりと溢れる。それを出汁に溶け出す前に、麺と絡めて食べるのが好きだ。まさに口に運ぼうとした時、こちらに声がかかる。
「そういえばさ、今度の飲み会。どこにする。健一いい場所知らないか」
「そうだな。この前の、ここから近い所で良いんじゃないか。俺山の方に住んでるからここらはあんまり詳しくないんだよね」
「お前の家って俺等と反対方向だよな。山奥の秘境だろ」
秘境まではいかない。失礼な。返しながら、家の話は振られたくなくて自然と口数が減る。しかし、そんな俺に構わず、話は最悪の方向に流れていこうとしていた。
一人がこちら側まで来た事がないと言えば、橋本が健一は一人暮らしだよなと言い、でも坂道の上だからかなり遠いよ、と返せば、誰かが車出すよ等と提案している。輪の流れとは恐ろしいもので、一度水が通れば、それしか道がないかのように決まった方向に流れ出す。学生特有のその場の勢いという魔物は、家主が何を言っても、もう止まってはくれなかった。やんわりとした断り文句も、この雰囲気ではただの冗談ととられている。
幸いなのは次の集まりは約二ヶ月後だ。高校時代、いつも人が出入りしていたが、思えばそれ以来一度も人を招いていない。だからなのか何となく家に来られるのは嫌だったが、決まってしまったものは仕方がない。
早くも二ヶ月後の事を思って憂鬱な気持ちで学校を出て、家の最寄り駅にある食堂で夕食をとろうとした。そこで自覚した事実に、二ヶ月後の自宅訪問は憂鬱なんてものではなく、社会的地位の終わりを意味していると悟った。
本当に、今まで全く気付かなかった。これだけ物が溢れ不自由している癖に、それが不自由だとも思っていなかったのだ。
ゴミ屋敷だと気付き早一週間。あれから片付けようとしてみても、どうしても物を捨てられず、逆に少しずつ物を増やしていってしまっている始末。今日も半畳程しかない隙間で眠っている。別に自分以外には迷惑をかけてはいないのだから、もうこのままでもいいのではないか。半ば投げやりな諦めと焦りを心中で繰り返しながらも、丸めて寝た背骨を伸ばして大学に向かう。無理な体勢で寝ている背骨から、日々への抗議のように大きな音が鳴った。
何回かやんわりと断りを入れようとしてみても、もう決まった事と取り合ってもらえずにいた。週三回行っている居酒屋でのバイトからの帰り、深夜にさしかかった夜空を見上げて、息を吐く。
断りきれないならいっそ、どこかに飛び込んで怪我でもしてしまえばうやむやになるのではないだろうか。いや、見舞いや世話を焼かれては困る。それに、親に連絡がいくのも気が引ける。
期日が迫るにつれ、発想は危ういものになっていき、部屋は物が積まれていく。
とうとう約束まで一ヶ月になろうとした時、天啓のように食堂で見たテレビを思い出す。あの時やっていたのは、特殊清掃の番組だった。自分一人で手に余るなら、いっそ人の手を借りたらいいのだ。俺は救われた心地でパソコンの電源を入れた。
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