第12話 火鐘山の肝試し【3】

 タケルではない、男が。本来ならばタケルの顔が映るはずの場所に明瞭に存在している。

 黒い湖面には鮮やかな白い肌を幽鬼のように透かした、金色の髪の男である。


 咄嗟に息を呑んだ。

 自分は、夢か幻を見ているのだろうか。

 それとも――本当は、自分はこんな顔をしているのだろうか。

 


 さすがにそんな訳などないのに、眼前に現れた不可思議から逃れたい一心で、思わずそんな考えに縋りそうになる。


 金髪の男は、自分は、その鮮やかな色彩には不似合いなほど、生気のない眼差しで此方を見ていた。

 まるで、出口のない迷路にでも迷い込んでしまったかのような顔をしている。迷ってしまってから、出口がないことを知ったのか。それとも、元より出口などないとわかっていながら、足を踏み入れたのか。


 眉間には怒りと悲しみを滲ませた皺が深く刻み込まれ、薄い唇は呪詛を封じるように一文字に引き結ばれている。

 これが自分だというならば、洲住健という男は如何にも気難しげで神経質そうで、そして何より陰気な人間に見えた。

 いや、陰気なのは元より自覚しているけれど。


「なんだ……何も見えないじゃない」


 不意に聞こえてきた奈津子の言葉に、タケルは沼の水面を見詰めたまま、目を見開く。

 何も見えない……それはこの深い闇が本当に湖面に像を結ぶことを諦めているのか、それともただ奈津子自身を薄く映し出しているかの、どちらかであるということだろう。

 落胆したような声音からも、彼女の目には少なくとも今自分が目にしているようなものが見えていないことはよくわかる。


「運命の人が映るとか言い出したの誰よ」


 そういえば、そんな話だったか。

 とするならば、この沼の中の男はつまり、タケル自身の姿ではなく、タケルの所謂、運命の相手ということなのだろうか。少なくとも、噂話を信じるならば。


 先ほど、鏡面に青い瞳を見付けた時とは違う種類の困惑に、タケルは眉を寄せた。

 奈津子の愚痴などどこ吹く風とばかりに、水面の男は少しも揺らがず、幻のように消える素振りすらない。


 今更ながら、ぞわりと悪寒が背筋を走り抜けた。

 急激に、目の前の男から目を逸らしたい衝動にかられる。

 見てはいけないものを見てしまっている。それだけは、直感的に理解出来たから。


「あっ! ちょっと、ねぇ、ちょっと待って、何か……きゃっ!」

「香菜!」


 すると今度は、少し離れた闇の中から大きな水音が聞こえてくる。何か、例えるなら人間ほどの大きさのものが、沼に落ちたような音である。

 同時に、離れた場所で生まれた波紋が、水の中の男を歪ませ、消し去った。


「えっ、何?」


 男が掻き消えた途端、金縛りが解けたかのように身体は自由になった。タケルは、内心の安堵に声が震えるのを抑えながら、水音のしたほうに声をかける。嫌な予感は、続いていた。


「かっ、香菜が沼に落ちちゃった!」

「なんだって?」


 隣の宮本が、タケルの驚きを代弁するように裏返った声を上げた。

 慌てて脇に置いていた懐中電灯を掴むと、スイッチを入れ、香菜のいたはずの方角を明かりで照らす。


「身を乗り出し過ぎるからよ……」

「違う! よくわかんないけど、何かに引っ張られたみたいだったの!」

「何かって、何?」

「それはよく見えなかったけど……」

「そ、そんなことよりっ、助けないと……!」


 パニック状態の奈津子に、珍しく苛立たし気な美羽が突っかかっている。意外にも、今この場で一番正しいのは、宮本に違いなかった。


 飛び込んで助けなければならない、と、タケルは直感的に理解していた。この闇の中水へ落ちれば、自力では上がって来られない可能性もある。

 水の事故は、一分一秒が生死を分ける。悩んでいる暇はなかった。しかし、


「助けるって……どうやって……」


 縋るような奈津子の視線が、闇を越えて此方に注がれているのを感じる。

 臆病な宮本は、恐らくタケルと同じく答えをわかっているだろうに、まごまごと身体を揺らしていた。無論、美羽は香菜のために水に入る気などないのだろう。


 今すぐ、自分が飛び込まねばならない。それは、わかっている。わかっているのに、懐中電灯を握ったままの姿勢で、何故だか身体が動かない。


 状況を正確に理解している脳とは裏腹に、身体は竦み上がっていた。

 浅い呼吸に、汗で湿った服の下で胸が大きく上下する。


 こんなとき、この場にいたのが自分ではなく、加賀嶺晶ならば、舌打ちをしながらも迷うことなく香菜を助けに飛び込んだに違いない。


 ……いや、そんなことはないか。

 晶は、友達が沼に落ちても、助けたりはしない。

 そう、しなかった。

 あの日、沼に落ちたタケルを、晶は置き去りにしたではないか。


 きっと、晶はこの場にいても、飛び込まない。

 ならば自分が飛び込まないのも、当然の成り行きと言えるだろう。

 他でもない晶に出来ないことを、自分がやれるとは、タケルには到底、思えないのだから。


「あ、待って! 待って、何か浮かんで来た! 香菜? 香菜!」


 凍り付いたまま、水面を照らしていた懐中電灯の明かりの中に、奈津子の言う通り、確かに何かの影が浮かび上がって来ていた。

 墨色の水に広がる、亜麻色の髪。白い腕と、そして見覚えのある、チェック柄のシャツ。それは、今夜香菜が着ていた服に違いなかった。


「香菜……!」


 奈津子が、泣きそうな声で香菜の名前を呼びながら、浮かんできた身体に手を伸ばす。

 自分も、落ちてしまいそうなほど前のめりになって、漸く指先が亜麻色の髪のひと房を握る。


「香菜、待って……今、助けてあげるから……っ」


 奈津子を手伝えば良いのに、タケルを含め、他の人間は皆、おろおろとその様を見ていた。

 クラスメイトを助けたくなかったからでは、ない。少なくとも、タケルは。


 ただ、水底から浮かんできた彼女の身体が、あまりにも無機質に見えて、動けなくなってしまったのだ。

 そう、それは到底生者には見えない、まるで――


「あぁぁ……!」


 今まで聞いたこともないような、少女の声が夜の森に吐き出される。驚きと、そして何より落胆と絶望を色濃く滲ませた響きは、不吉な鳥の鳴き声によく似ていた。


「香菜……! 香菜……あぁぁ……どうしようどうしようどうしよう……ウチ……」


 血の気の失せた顔をぐにゃりと歪に歪ませて、奈津子は早口で友人の名を繰り返す。涙の滲んだ瞳は、夜の中で、一層虚ろに窪んでいた。


 しかし、そんな彼女の表情などよりも、異質なものがある。その場にいた奈津子以外の三人の視線は、間違いなくそこに吸い寄せられていた。

 少女の、手の中にある、毛の生えたバスケットボールサイズのモノに。


「香菜の……頭だけ……取っちゃった……」

「ヒッ」


 奈津子の直ぐ隣にいた、美羽の口から、引きつったような小さな悲鳴が漏れる。


 奈津子の濡れた手の中には、首があった。亜麻色の髪の、香菜にしか見えない、人間の首が。


 その、あまりにも現実感のない光景から、タケルは目が離せなくなっていた。

 凍り付いた自らの手は、妙にはっきりとした光で水面を照らし続け、その反射が、クラスメイト達を寒々しく夜の中浮かび上がらせている。

 確かに数分前まで香菜だったはずの、お喋りな首を抱える奈津子の腕は、ぐっしょりと濡れていた。それが沼の水のせいなのか、それとも血によるものなのか、目を凝らして確かめる気にはなれない。


「どうしようどうしようどうしよう違うの……ちょっと力入れて引っ張っただけで……違うの香菜……ごめん、ごめんね……今くっ付けてあげるから……」


 少女は生首を胸に抱き、まるで産まれたての仔馬のように震える身体で、沼へと身を乗り出した。

 懐中電灯に照らし出された墨色の水には、首を失った香菜の身体が浮いている。力なく、だらりと四肢を伸ばした死者そのものの姿は、もう二度と彼女が動き出すことはないのだと告げるように。


 だがしかし、そうではなかった。

 奈津子が、置き去りにされた身体に向かって手を伸ばしたその瞬間、ふっと、首のない少女の上体が動いたのだ。

 まるで、何かが、沼の中から香菜の身体を押し上げるように、ぐらぐらと、水の中、人形のような手足が揺れた。


「え」


 戸惑いの声を上げたのは、誰だったか。否応なしにこの異常な光景に目を奪われていた少年少女たちの、誰がその音を零しても、おかしくはなかった。


 四つの視線が注がれる中、首を失った少女の身体は、その揺れを大きくしていき、そして――


「何……なにか、いるの……?」


 美羽が、強張った声でそう言ってタケルや宮本のほうを振り返った瞬間、ざばりを大きな水音をたて、それは沼から現れた。


 同時に、何かが空気を鋭く切り裂くような音が鳴り、赤い飛沫が闇に飛び散る。

 それは、奈津子の頭と胴体とが、離れ離れになったために吹き上がった鮮血だった。


「あ」


 悲鳴にもならない、短い声。それが、目にも見えない速さで何かに首を刈り取られた、奈津子の最期の声だった。


 温かな血飛沫が、美羽の白い頬に跳ねる。その、生々しい体温に、少女が隣の奈津子へと視線を戻したのと、どさりと、頭部を失くした身体が崩れ落ちたのは、殆ど同時だったように思う。


 彼女の首は、きっと遠くまで飛んだに違いない。

 それほどまでに、見えない刃は素早く、力強かった。

 いや、見えないわけではないのだ。本当は。ひどく見え難かっただけで。


 香菜の身体を押しのけ、沼の中から現れたのは、巨大な影だった。

 懐中電灯の明かりも、細く朧な月明りすらも塗りつぶすような、黒い影。


 一瞬、熊という単語が頭に浮かぶ。しかし、そうではないとすぐわかった。その影は、熊の何倍も大きく、タケルには見えたから。


 けれど、何かと言われれば、それが何かはわからない。

 何せ、影には頭部がなかった。顔の……首のあるはずのその場所には、何もない。目も鼻も、口も。それこそ、今しがた頭を失った、浅井奈津子と同じように。

 相違点があるとすれば、頭部を失った奈津子の身体はあっけなく崩れ落ちたのに対し、影は、明らかに動いていることか。


 長く鋭い、黒く繰り潰された刃のようなものを、静かに振りかざす首のない異形。

 否、赤い、血糊を滴らせるそれは、その影の腕か、鉤爪のようにも見えた。


 ぼとりと、タケルの手から懐中電灯が落ちる。

 それが、合図だった。


「い、いやぁあああああ!」

 この世のものとは思えないほどの金切り声を上げて、美羽は走り出した。

 髪を振り乱し、首のない死体も、その腕から転がり落ちた違う死体の首も蹴飛ばして、一目散に駆けていく。

 その少女の姿に我を取り戻した様子で、宮本と、次いでタケルもその場を逃げ出した。


 三人は散り散りに樹々の中を転がり、それぞれがただ我が身を守るためだけに、山道を走る。


 自分は、何を見たのだろう。あの影は、なんだろう。

 疑問はいくつもあったけれど、そんな些末なものを押しのけ、その身を動かしたのは、紛れもない恐怖と生存への本能だった。


 逃げなければならない。とにかく、今は。

 逃げなければ。逃げなければ。


 生者の気配の失せた鏡沼で、巨大な影はのっそりと、その身を揺らしていた。まるで、行き先を少し考えるような、優雅な仕草で。

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