第11話 火鐘山の肝試し【2】

 火鐘山の山頂近く、一般の登山道を途中「鏡沼此方」と擦れた文字で書かれた看板でわき道に入り、二十分余り古道を歩くとそこはあった。


 何十年も前に辛うじて舗装されたような、ぬるりと湿った土を踏みしめ、容赦なく鋭い枝葉を伸ばす黒い樹々のトンネルを暫く行く。

 永遠に続くように思えるその鬱々とした道行に、唐突に突き付けられる終わり。


 背の高い樹々に囲まれ、まるでそこだけ誰かが森を掬い取り、水を注いだかのような場所、それが鏡沼である。


「うわぁ、思ってたより大きいんだね!」


 夜の闇を、キーの高い少女の声が震わせ、直ぐに吸い込まれていく。

 香菜は、道中固く組んで離さずにいたタケルの腕を漸く解放し、吸い寄せられるように鏡沼の縁へと駆け寄ってい行った。


 湖と呼ぶには小さく、それでいて沼という響きから想像するよりは大きなその場所を目の前に、タケルは無意識に目を眇める。


 幼い頃は、よくこっそりとここまで遊びに来ていた。こんな真夜中に来るのはさすがに初めてではあるが、昼の光を反射してキラキラと輝く凪いだ緑の水面は、思い出そうとせずとも直ぐに脳裏に浮かんでくる。


 鏡禰神社によれば神域とされるこの沼は、やはりどこか独自の空気があるように思う。

 地元の者でも滅多に近付かないこの場所はひどく静かで、いつだって自分の、そして幼馴染の愉快そうにあげる笑い声だけが、場違いに響いていた。今の、クラスメイトたちのものと同じように。


「こんな場所だったっけ……ウチ、小さい頃に親と来て以来だけど、覚えてるよりもなんか不気味な感じ……」

「えっと……夜の水辺だから……じゃない、かなぁ……少しだけ、怖い雰囲気……あるよね……」


 奈津子や宮本の言う通り、夜の鏡沼は、タケルにとってもなんだか背筋がぞくぞくとするような、非現実感を帯びて見えた。

 今にも折れてしまいそうな細い月だけを映す、黒い水面のせいだろうか。墨を流し込んだようなそれは、ともすれば全てを飲み込んでみせようとする、怪物の巨大な口にも錯覚する。


 風が、不意に水面へ小さな漣を作った。そのか弱い波紋に、ふとデジャヴのようなものを覚えて、タケルははっとする。


 そういえば、昔一度だけ、自分は夜にこの場所にいたことがある。

 そう、他でもないあの日の晩――晶と、最後に鏡沼に来た日のことだったはずだ。


 けれどそれは鮮明な記憶ではない。

 ひどく遠く翳む、微かな思い出。拭き残した汚れのように断片的に残るのは、水を吸った服の重さ、冷たい草が皮膚を刺す痛み、真っ赤に染まった視界と、皮膚が裂けた後の燃えるような熱、そして力強い――


「なんだか、不思議の国に迷い込んじゃったみたい」


 ふと隣で呟かれた台詞に、タケルは記憶を手繰り寄せる手を止め、相手のほうへ視線を向けた。


「不思議の国?」

「うん。今にも妖精さんとか、出てきそう」


 美羽は、甘えるようにクスクス笑って、彼女にしては悪戯な仕草で肩を竦めた。

 夜の暗さが、その白い頬と潤んだ瞳を、より一層美しく見せている。この町一番の美少女の名を、産まれてこの方ほしいままにしているだけのことはあるのだろう。彼女の容姿の優れていることは、如何に鈍い鈍いと幼馴染に揶揄されるタケルといえども理解していた。ただ、その美貌に対して、どこか客観的な感想を抱いてしまっているだけで。


 何せ、知っているのだから、仕方がない。

 本当の美というものを。最も美しい存在を。


 ……いや、自分は何を考えているのだろう。


今、誰を、思い出そうとしていたのだろう――…。


「洲住くん!」


 自分の名を呼ぶ少女の声に、タケルははっと顔を上げた。途端、掴みかけていた何かの断片は、するりと尾鰭を振って逃げていく。


 片倉香菜が、此方を睨むような目で見ていた。その視線はタケルに向けられているようでいて、明らかな敵意は、隣にいる美羽へと放たれている。


「もう、ぐずぐずしていたら零時になっちゃうよ! ほら、早く! 運命の人、一緒に確かめよう?」

「う、うん……」


 心なしが語調の強い響きに、僅かにたじろぎつつ、腕時計で時間を確かめる。確かに香菜の言う通り、あと数分もせずに時計の針は頂点で揃うだろう。


「香菜ちゃん、すっごく張り切ってるね。そんなに運命の相手を知るのが楽しみなの?」

「そりゃあね。そのために来たんだし」

「そっかぁ。でも、あんまり期待し過ぎないほうがいいんじゃない?」


 ふわりと、長い髪を揺らして、タケルよりも先に美羽が香菜の元へと向かう。

 その口元は相変わらず綺麗な笑みの形を作ってはいたが、その一方で目元が笑っていないように見えたのは、恐らく気のせいではないだろう。


「ちょっと。それ、どういう意味?」

「そのままの意味だよ。香菜ちゃんが望む相手が、香菜ちゃんの運命の人とは限らないんじゃないかなってこと」

「なっ……!」


 美羽にしては素直に攻撃的なその言い様に、香菜だけではなく、その場にいた全ての人間が驚いた。


 常に周囲に愛され、それ故の高慢さはあっても、あえて誰かを攻撃するような無駄なことは、基本的にしないだろうというのが、タケルを含め彼女を遠巻きにする人間の見解だろう。しかしながら、今、美羽が香菜に向けたのは、あからさまな口撃に他ならない。


 俄かに、嫌な予感とでもいうような、不安がタケルの胸を過った。

 ふたりの少女の視線の間を、見えない火花が散っている。今にも掴み合いにでも発展しそうな緊張感に、どうしたものかと戸惑っていると、その場でただもうひとり、彼女たちと肩を並べられるだろう存在が口を開いた。


「ふたりとも、喧嘩するなら終わってからにしてよ。言い争っていて時間を過ぎちゃったりしたら最悪じゃん」


 窘めるような奈津子の言葉に、俄かに香菜と美羽が口を噤む。

 それでも、互いに睨み合うことをやめない様子に、奈津子はわざと周囲に聞こえるほどの大きさで溜息を吐いた。


「てか、美羽こそ随分自信ありそうだけど、あんたの運命の相手だってあんたの望む人間じゃないかもなんだからね」

「そんなことないよ。美羽は他の人とは違うもの」


 あわや奈津子までも戦争へ参加するのかと、一瞬ひやりとしたものの、彼女の棘のある言葉に返されたのは、毅然とした美羽の呟きだけだった。


 果たしてその自信は、本当にどこから来るものなのか。タケルでさえもいよいよそんなことを思ってしまっているなどと、当の少女は気が付いているのだろうか。


 香菜も奈津子も、美羽も、三人ともが、心なしか普段学校で会う時よりも、どこか攻撃的で、良くない意味で相手に素直になっている気がした。学び舎という窮屈な檻の外へ出たからか、それとも夜の齎す高揚が、少女たちの本質を暴いているのかはわからないけれど。


 夜とはそういうものなのかも知れない。冷たく肩に落ちる闇は、昼の光の元では理性の内に隠している獣性を、優しく露にしてしまう。


 結局それ以上、闘いは紛糾することもなく、けれどひたすらに重い空気とピリピリとした気まずい緊張感だけは残したまま、少女たちは沼の縁へと歩いて行った。


 昔から、この沼の周りにはろくな柵など建っていない。申し訳程度に、低い位置で古いロープが張られているのみだ。

 以来、危ないだろうという声も上がっていることはいるらしいのだけれど、如何せんそれなりに広い場所であり、何よりそもそも遊びに来るような子どもも殆どいないせいか、結局今日まで改善されてはいないようだ。


 沼の縁に沿ってはじめに奈津子がしゃがみ込み、それを左右から挟む形で、香菜と美羽が並ぶ。

 少女たちがそれぞれチラリと此方を振り返り、無言のうちにタケルに隣を促していた。


 さて、どうしたものか。

 しかしそう悩む間もなく、あえてなのかどうか、宮本がおずおずと美羽の隣を陣取ってくれたので、タケルはそのまま宮本の空いているほうの横へとしゃがみ込むことにした。

 どこからか、舌打ち混じりの溜息が聞こえた気もしないではないが。


「……なんにも、映らなきゃいいのに……」

「え……?」


 少女たちが、上手い体勢を探してガサガサと足元の草を踏み乱す音の中で、紛れるようなか細い呟きが直ぐ傍から聞こえてきた。

 驚いて隣の宮本を見る。彼は、タケルの視線には気が付いていない様子で、ただ不安そうに黒い水面を見ていた。


「みんな、零時になるよ!」


 香菜の声を合図に、少女たちは持っていた懐中電灯を消灯し、それぞれが軽く身を乗り出して、鏡沼を覗き込む。

 タケルと宮本も、慌てて灯りを消してそれに倣った。


 その途端、俄かに山は闇を取り戻す。

 異物でしかなかった人工的な灯りがふっと掻き消えた瞬間、目の前の沼が夜の闇と同化して、突如得体の知れない空間へと転じた気がした。


 白い糸で編んだような月に、不意に薄い雲がかかり、より闇を濃くしていく。

 示し合わせた訳でもないのに、その場の全員が、口を噤んでいた。各々が思うさま水面を覗き込んでいるということは、身じろぎする気配と僅かな音だけで伝わってくる。


 タケルもまた、真っ直ぐただ、鏡沼を見詰めていた。

 徐々に、目が夜の暗さに慣れていく。それにつれただ暗黒に包まれているようにしか思えなかったそこに、像が浮かび始めた。まるで本当に、目の前に鏡があるかのように。


 そして、目が合った。


 つるりとした水面に映る、一対の青い瞳と。


 瞬間、何かに抑えつけられているかのように、身体が動かなくなった。

 沼の中、誰かがいる。

 自分ではない、誰かが。


 タケル自身の目も、確かに光の当たる角度によっては薄い青や緑に見えることもある。

 しかし、今、沼の中から此方を見詰めてくるそれは、そんな淡いものではなく、ただ鮮やかに深く、透明な青色をしていた。例えるなら、ブルーサファイアだろうか、宝石にさえ劣らぬ色をしている。

 

 そう、だから見間違いではない。

 鏡沼の水面には、見知らぬ男が映っていた。

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