第10話 火鐘山の肝試し 【1】

 火鐘のお山の鏡沼には、龍神様が住んでいる。


 そんな言葉をはじめて聞いたのは、果たしていつの頃だったろうか。

 この比米守の町に生まれた子どもならば、例外なく皆物心つく頃には、一度は耳にしているに違いない。父も母も、祖父も祖母もそうだった。子守唄に、そして、時には一種の戒めとして、龍神――常夜間之加火美根比売とこやまのかがみねひめは比米守の人々の傍にあった。


 それは勿論、十七年前の夏、身の内から炎が燃え爆ぜるような日に母親の胎から出でた、赤ん坊にとっても例外ではない。

 否、例外ではないはずだったのだ。本当ならば。


「でも、疫病を鎮めても、今度は大火事を起こしちゃうなんて、カガミネヒメって良い神様なのか悪い神様なのかわかんないね」


 この地に住むものにとっては今更過ぎるお伽噺に、どうにも釈然としないような感想を述べたのは、当然ながら都会から来たばかりの片倉香菜しかいなかった。


 夜の火鐘山を登る、その道中でのことである。


 晶の家で夕飯を食べ、暫くのあいだ取り留めのない話をしたり、テレビゲームをして、タケルが神社を出たのが午後十一時前。麓の山道の入口で、香菜たち肝試しの参加メンバーと落ち合ったのが、十一時頃のことだったか。


 そこから集まった五人で鏡沼に向かって山を登り始め、そもそもこの町に伝わる常夜間之加火美根比売の伝説をよくは知らないという香菜に、タケルが伝説の概要をかいつまんで説明してやり、今の感想に至ったという訳だ。


「それは……」


 自分に、ぴったりと歩幅を合わせて真横を歩く少女の思いがけない発言に、思わずタケルは口籠る。


 良い神様か、悪い神様か、そんなことは一度も考えたことがなかった。

 幼い頃から何度も聞かされ、どこか身近に感じていたこの火鐘山の神である常夜間之加火美根比売は、タケルにとって良い悪いではなく、そう言った性質の神であると、ただ受け入れてしまっていたのだから。

 今更そんなことを訊かれても、ただただ困ってしまう。


「か……神様に、良いも悪いもないんだよ。残酷な面と慈悲深い面を持ち合わせているのが普通なんだ」


 タケルの困惑を、別に察し訳でもないだろうが、後方からそんな助け舟のような答えが聞こえてきた。

 クラスメイトであり、この場でタケル以外の唯一の男子の宮本祐司である。


「例えば……どんな便利な道具や、身体に良い食べ物だって……、その、使い方や摂る量を間違えれば怪我もするし、病気になる……でしょ。完全に、人間に都合が良いだけのものなんて……ないんだよ。僕たちだって……良い面だけの人はいないし、どんな人にも、その……悪い面が――」

「じゃあ、宮本くんは美羽のことも、悪いところがあるって思ってるの?」


 しかし、そんな宮本のおどおどと紡がれる弁論は、不意に差し込まれた甘ったるい声の横やりに、呆気なく遮られてしまった。


「あ、い、いやそれは……これはたっ、ただの一般論で……堀ノ江さんが……どうとかではなく……人には必ずしも……二面性があるって――」

「美羽、裏表のある人、好きじゃないなぁ。健くんもそうでしょ?」

「え、あぁ……う……うん……」


 結局、堀ノ江美羽の全く趣旨違いの主張を前に、宮本はきゅっと己の唇を噛み締め、黙り込んでしまう。

 その如何にも悲しげな風情に、咄嗟に頷いてしまった健の胸が微かに痛んだ。

 

「だよね。二重人格?みたいな? 裏表がある人ってなんか怖いし……美羽は誠実で優しい人が好きなの」


 当の美羽本人は、口を噤んでしまった宮本をチラリと一瞥すると、一瞬だけ満足そうな笑みを浮かべ、直ぐにまたか弱い小鳥のような仕草で、わざとらしく困ったように眉を寄せる。


「そりゃあ、美羽の周りの人は、いっつも美羽に優しいもんね」


 そんな彼女の表情の変化に、タケルと同じく気付いていたのだろう、同意に見せかけた浅井奈津子の言葉には、嫌味と呼ぶに相応しい棘があった。


「うん。奈津子ちゃんも、ね」


 ただ、残念ながらその程度の攻撃、美羽には通じはしないようだけれど。


 美羽は、細い月が申し訳程度に光を注ぐ夜の山で、長い髪をふわりと揺らして、妖精のように歩く。


「香菜ちゃんも、宮本くんも、いつも美羽に優しくしてくれるから好きよ」


 彼女の手にした小さな懐中電灯の明かりが、順に名を呼んだ相手を照らしていく。スポットライトというよりも、取り調べのそれによく似たその光に、無意識に皆、顔が強張った。


 体重を感じさせない彼女のつま先が、プリマが躍るように大きな一歩を踏み出し、一瞬のうちにタケルとの距離を詰める。

 香菜がいるのとは逆の隣に、そっと美羽が寄り添ってきた。


「もちろん、健くんも……大好き」


 此方を見上げ、ふわりと天使のように微笑む少女のその一言に、不覚にもドキリとした。


 闇の中で白さの際立つ細い指先が、そっとタケルの腕に触れてくる。

 まるで、蛇に睨まれた蛙にでもなったかのようだ。


 真っ直ぐ見上げてくる少女の視線に、たらりと背中を汗が伝う。緊張で速くなる鼓動を隠し、果たしてどう返したら良いのかと戸惑っていると、今度はぐっと、左腕が引っ張られた。


「えっ……」


 驚いて左側に視線を動かすと、香菜がタケルの腕に、自分の腕を絡めていた。微かに、柔らかな感触が当たっている。いや、もしかするとわざと当てられているのかも知れない。


 香菜は猫にも似た勝気な瞳を一層強くつり上げて、タケル越しに美羽を睨み付けていた。目を細め、口角をくっと持ち上げた美羽とは対照的な表情である。

 しかし、そのどちらも、根底に流れる冷ややかさが同じであることは、さすがのタケルにも伝わって来る。


「てか、なんで宮本までいるわけ? 誘ってないんだけど」


 自分の不用意な言動で、一気に事態が悪化してしまいそうな予感……そんなタケルの心情を察してか、話題を変えようとしてくれたのは、浅井奈津子だった。

 唐突に刃を向けられた宮本にしてみれば、たまったものではないだろうが。


「え、そ、それは……ほっ、堀ノ江さんが……」


 案の定、不意に向けられた棘のある声に、彼は可哀想なくらい動揺した。

 小動物的な大きな目がきょろきょろと動き、助けを求めるように、自分より一歩前を行く少女の背中に留まる。


「美羽が誘ったの。ごめんね。たくさん人数がいたほうが楽しいと思って」


 美羽は、闇に紛れるほどの一瞬、ひどく面倒そうな目をした後、またくるりと表情を変え、悪びれのない笑顔でそう言った。


 先ほどの問いは、あまりにもわざとらしかった。本当は、恐らくこの場にいる香菜以外の全員が、此処に宮本が来た理由を知っている。


 つまるところ宮本は、美羽のお目付け役なのだ。他でもない、美羽の両親お墨付きの。なんでも宮本家と堀ノ江家は、古くから家族ぐるみの付き合いがあるのだとか、どうだとか。


「ふぅん。相変わらずお姫様は、宮本がいないと遊びにも出られないんだ」

「うちのパパとママ、すっごく心配性だから……でも、そんなの今更、だよね。美羽が行くところに、宮本くんがいるのなんて、前からじゃない。それをわざわざ気にするなんて……奈津子ちゃん、もしかして宮本くんのこと、なんだか気になってたりするのかな?」

「はぁ? 気になってるって、それってどういう意味?」

「そのままの意味だよ。奈津子ちゃんて、実は宮本くんのこと――」

「ふざけんな! 誰がこんな金魚のフン!」

「それよりさ、洲住くん! さっきの話だけど、そのカガミネヒメが封印?された場所が、今向かってる『鏡沼』ってとこってことなの?」


 見た目ほど甘くも優しくもない少女の反撃に、場の空気を変えてやるどころか声を荒げだしてしまった友人を助けるべく、今度は香菜が話題を戻す。


「あー……うん。一応、そういうことになってる」


 タケルは『封印』という言葉に内心僅かな引っかかりを覚えながらも、彼女の機転に乗るべく、慌てて何度か頷いた。


「えっと、実はこれについては諸説あってね……鏡禰神社に残っている文献とかにも、色々なパターンで書かれているらしいんだ。加火美根比売の元々の住処が鏡沼だったっていう本もあれば、鏡沼は比売の炎を鎮めるために火之迦具土大神が作った沼だって書いてあるものもある。他にも、比売が封じられるときにその炎が山を燃やし、地層を溶かして窪みとなって、今のような鏡沼になったとか、鏡沼の底にはお山全体に繋がる横穴が複数あって、あの沼は山の中を這って移動する比売の、此方側への言わば出入り口だとか……

 だから、加火美根比売と言えば鏡沼だけど、その繋がりが本当になんなのかっていうのは、実のところ正確にはわかっていなくて――」


「へぇー、そうなんだー! 色々あるんだね! 洲住くん詳しくてすごいなぁ!」

「……ぼくは晶ちゃんや、晶ちゃんのお祖父さんに、昔ちょっと聞いただけだよ。詳しいところはやっぱり加賀嶺の人たちに聞いたほうが――」

「ううん、大丈夫。あたし、洲住くんの説明でばっちりだから!」


 必死になり過ぎて、うっかり饒舌が過ぎただろうか。自分から訊いておきながら、香菜の返事はどこか軽く、話の内容をきちんと聞いてくれているとは、到底思えなかった。


「けどさ、あれだよね。そうやって来歴もはっきりしないからなのかな。鏡沼の怪談が無駄にバリエーション豊富なのは」

「たっ、確かに……鏡沼イコール加火美根比売がいる場所、という……ざっくりとしたイメージしかないからこそ……各家庭でそれぞれ違う話が出来上がってしまったのかも……そ、それを……みんな幼稚園、小学校……中学校と持ち寄って比べ合って、混ざり合い……都合の良いものに……変えていった、と……」


 この場で唯一、タケルと話が合う人間がいるとすれば、それは意外でもなんでもなく宮本に違いない。彼はいつもタケルに輪をかけておどおどしているが、頭の中では色々と考えているタイプなのだろう。


 そんな少年たちの話を、果たしてどこまで真剣に聞いてくれているのだろうか。少女たちは宮本の言葉をふぅんと適当に聞き流し、冗談ぽく笑って肩を揺らした。


「まぁ、最終的にありがちな怪談話に落ち着いて行くよね。そのほうが面白いし」

「『真夜中の零時に鏡沼を覗くと、運命の人が映る』なんて、元々のカガミネヒメ全く関係なくなってるもんね」

「でも、美羽は他のやつよりその話が好きだよ。今日も、その噂を確かめるために来たんだもん」

「そりゃあまぁ、『足を引っ張られて沼底に連れて行かれる』とか『カガミネヒメの呪いで高熱が出る』とか、『カガミネヒメに頭から食べられる』なんて、検証しには来ないよね」

「肝試しとは」

「いいの、いいの! こういうのは雰囲気が大事なんだから」


 つい先ほどまで醸し出していた一触即発の空気など嘘のように、三人の少女は如何にも楽し気な笑い声で森の夜を震わせた。


「鏡沼、零時までに着けるかな?」

「まだ十一時半くらいだし、大丈夫だと思うよ」

「そっか、良かった」


 弾むような声音も、鈴を鳴らす笑い声も、しかしそれらは別に、和解の合図でもなんでもないのだ。彼女たちはいつだって、タケルの理解を越える振れ幅で感情を動かしている。


 その証拠に、女子同士で笑っていた次の瞬間、ふと囁くように、そっと美羽が此方に声をかけてきた。


「健くんも、もちろん試してみるでしょ。運命の人」

「え」


 香菜と奈津子の視線が、チラリとタケルのほうを向く。笑い話の名残を残した口元とは裏腹に、その瞳は鋭く此方の様子を探っていた。


「うーん……どうかな。あんまり興味ないけど……」

「だめ。試して」


 妖精のお姫様が、その愛らしい顔には似つかわしくない、強い口調で言葉を続ける。


「だって、美羽は気になるもん。健くんの運命の人」


 本当ならばここで、「どうして?」と訊くべきだったのかも知れない。少なくとも、彼女はその問いを待っているような顔をしていたから。

 けれどタケルは、あえて何も言わずに、曖昧な笑みだけを返した。

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