第9話 声【2】

 先ほど話をしたばかりの、祖父の顔が脳裏に浮かんだ。あの飄々とした祖父の三分の一でも、上手く回る舌があればよかったのに。


「俺は信じてねぇけど、お山には神様が眠ってるって信じて、何十年も祀ってる人間だっているわけだし。そういう気持ちで、お山を守ってる人間に、失礼じゃん」

「そっか……そうだね」


 結局、なんだか拗ねたような言い方しか、出来なかった。それでも、猫のように丸くなって此方の話を聞いていた幼馴染は、妙に真剣な声で、相槌を打ってくれた。


 名前なんて出さなくとも、晶が誰のことを言っているのか、きっと彼には当然のようにわかってしまったに違いない。


「やっぱり、ごめんね。ぼくもこういうの、これっきりにする。あと、絶対にゴミのポイ捨てはしないよ。みんなにもお願いするからね」

「当たり前だ馬鹿。なんかあったら全部お前の責任だからな」

「あはは、そっかぁ。気を付けるね」


 鈴が転がるようなタケルの笑い声に、ささくれ立っていた心が、落ち着いていく。洲住タケルは誰よりも晶を苛立たせるのに、同じくらい簡単に、此方の怒気を収めもする。


 だからこそ、ずきりと胸が痛んだ。

 尤もらしく並べ立てた拒絶の理由――そこに嘘はなかったけれど、それが全てなわけではないという真実に。


 いや、本当はタケルも気付いているのかも知れない。

 気付いていてあえて晶を誘い、だからこそ、「それ」以外の理由を与えられた今、そんなふうにどこか安堵した様子で、笑っているのかも知れない。


「あらあら、楽しそうねぇ、ふたりとも」

「あ、いなほさん」


 そのとき、ちょうど廊下から祖母が声をかけてきた。楽しそうに笑っているのはどう見てもタケルだけだったが、祖母にとっていつも不機嫌そうで生意気な孫の表情は、こういった場合にカウントされないものなのかも知れない。


「そろそろお夕飯できるから、食卓の支度手伝ってちょうだい」

「はーい」


 祖母の言葉に、タケルはひょいっと元気よく起き上がると、良い子そのものの返事と笑顔でいなほの後に続き、居間を出て行こうとした。しかし、


「――っと」


 立ち上がり、歩き出した途端、タケルが何かを蹴飛ばした。

 それは、シュッと小気味の良い音をたてて畳みの上を滑り、狙いすましたかのように、晶の手元へとぶつかってくる。先ほどタケルが絵を描いていた、小ぶりのスケッチブックだった。


「これ、大事な物だろ。自分で蹴ってんじゃねぇよ」

「ごめん、床に置いていたの忘れてて……後で片付けるから、テーブルの上に乗せておいて」

「ったく……」


 哀れにも持ち主に蹴られたスケッチブックを、仕方なしに拾い上げ、晶は呆れたような声を漏らす。

 まだ使い古された感のないそれを、何気なくペラペラとめくっていると、一瞬、異様なものが目に入った。


 思わず手を止め、反射的に捲ったページを遡る。

 他人のノートを勝手に見るような罪悪感は、持ち主が目の前にいること、何よりも相手がタケルだったせいか、不思議とひとかけらもわいてはこなかった。


 そんなことよりも、今チラリと見えた絵が、気になって仕方ない。


「…………おい、なんだよこれ」

「え?」


 見間違いでは、なかった。

 晶は、スケッチブックの中ほどの一ページを大きく開き、幼馴染へと問いかける。


 そこはただ、黒く塗りつぶされていた。

 恐らく鉛筆を使って、ぐるぐると何度も重ねて円を描くようにして。四隅まで几帳面に浸食する濃い一面の鉛色。辛うじてところどころの隙間に、元の白い紙の名残が見え隠れしている。まるで、癇癪を起した子どもが、怒りにまかせて紙を蹂躙したかのような、乱暴で執拗な塗り方だ。


 空、夜、闇……そんな漠然とした単語が、一瞬頭を過っては、消えていく。どの言葉もそれらしく思えて、それでいてどこかわざとらしい。


 これも、タケルが描いた「絵」だというのだろうか。「夢」の。彼が常々描く、不思議な生き物や、寂しげな砂漠、異国めいた建物のそれとは、似ても似つかないけれど。


「声だよ」


 無意識に紙面を、食い入るように見詰めていた晶の耳に、とぼけた声が聞こえてきた。

 その答えに、弾かれたように顔を上げ、相手のほうを見る。


「は?」


 タケルは、廊下に出る寸前のところで、立ったまま此方を見ていた。戸惑い、訝しがる晶とは裏腹に、いつもと変わらぬ、優しく穏やかな笑みを浮かべて。


「声?」


 当たり前のように今しがた彼が告げた単語を、晶は不安げに繰り返す。

 それは、少なくとも晶の中で、黒く塗りつぶされたスケッチブックと、少しも繋がるようには思えない答えだった。


 タケルの、瑞々しい果実にも似た形の良い唇が、微かに動く。そっと、音もなく深められる笑みにぞくりと背筋が粟だった。


 此方が床に寝ころんでいるせいで、普段よりも余計に相手を見上げる形になっている。そのせいだろうか、洲住タケルの印象が、どことなく違って見えるのは。


 薄らと微笑み、人を見下ろす彼は、その造作こそ何も変わらにはずなのに、怖いくらいに美しく見えた。


「ふたりともー! 何してるのー?」

「あ、はーい! 今行きます!」


 廊下の奥、台所から業を煮やした祖母の声が響く。

 次の瞬間、祖母のいるほうへと向かって元気よく返事をしたタケルは、ただ、晶のよく知る幼馴染の顔をしていた。それこそ、間際に見ていたものは影の悪戯か何か、気の迷いなのだとでも言うように。


 呆けたように、直ぐには動くことの出来なかった晶を置いて、タケルはパタパタと急ぎ足で台所へ向かってしまった。

 何事もなかったかのように。


 いや、事実彼にとっては、何事もなかったのかも知れない。何事かを感じたのは、恐らく晶だけに違いなにのだから。

 じっとりと、全身に絡みつくような汗が、山の宵気に冷やされていく。


「晶ー! あなたも早くいらっしゃい!」

「……はい、はい」


 遠くから聞こえる、呆れた祖母の声に、果たして彼女まで届くかは怪しいほどの大きさで、ゆっくりと返事をした。


 手の中の、開かれたままのスケッチブックにもう一度、チラリと視線を落とす。例え、見知らぬ顔をした男が霞のように消えたとしても、そこに描かれているものに変化はない。

 一度塗りつぶされたページは、一瞬のうちに白く戻りはしないのだ。


 ただ晶に出来るのは、ページを閉じることだけ。見なかったことにするとは、なんとも都合の良い言葉である。

 無論、そんなものは気休めの逃避に過ぎないのだけれど。


 わざと勢いよく立ち上がり、幼馴染に遅れて部屋を出る。

 スケッチブックは、言われた通りにテーブルに置いて。なんとも言えない、形もないような漠然とした不安と、疑問だけを、どうしようもなく連れたまま。


 ――声。

 それは、誰の、どんな――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る