第8話 声【1】
祖父が立ち去ってから、それまでの雑念が嘘のように、晶は素振りに集中することが出来た。
気が付けば夏の長陽も落ち、道場がとっぷりと夜闇に覆われる頃には、道着はまるで川にでも入ったかのようにずっしりと汗で濡れそぼっていたほどである。
照明を点け、稽古を続けることも出来たが、一旦途切れた集中のせいで急激に覚えた空腹を無視することは難しい。
身体を動かした後の、なんとも言えない清々しさを手土産に、晶もまた、軽く道場の掃除をして参集殿を後にした。
すっかり夜の様相となった境内を抜け、社務所を兼ねた自宅に近付くに連れ、空腹を刺激する匂いが漂ってくる。スパイスの効いた、カレーの香りだ。
祖母のいなほは自他共に認める料理上手の料理好きだが、それにしてもこの暑い中、カレーを煮詰める根性には敬服する。
好物の匂いに、一層軽くなった足取りで玉砂利を踏み、玄関の敷居を跨いだ。
「ただいまー」
間延びした調子で、それでもきちんと台所のほうへ聞こえるようにそう言った。その声に、姿の見えない祖母が「おかえり」と言ってくれるのを聞きながら、廊下を歩き出す。
と、台所に向かう途中、障子が開け放たれたままの居間に、ふっと見覚えのある背中を見付けて、立ち止まる。
「タケル、来てたのかよ」
居間に設えられた縁側に座っていたのは、昼間に学校で別れたばかりの幼馴染だった。
「うん。お邪魔してます」
此方に背を向け、縁側に腰掛けていた相手が、晶の声にくるりと振り向く。
歩み寄ってみると、タケルの手にはB5ほどのサイズの小ぶりのスケッチブックがあった。白い紙面を、色のないイルカが泳いでいる。
いや、ただのイルカではない。
タケルの描いたイルカには、大きな扇子状の手があった。顔や尾、全体的な流線形はイルカそのものだけれど、その一点においてはどちらかと言えばアシカなんかに近い。何より、頭部にあるゾウのように大きな耳が、その生き物がイルカではないのだと主張していた。
「何それ。イルカ? ゾウ?」
「どっちでもない。たぶん……ケヒュカ?」
「ケヒュカ……」
耳慣れないその響きを繰り返し、晶はそっとタケルの横顔を盗み見る。此方の視線を、意識もせずに鉛筆を動かす彼は、まるでスケッチブックの向こうに、もうひとつの世界を見ているような顔をしていた。
恐らくこれもまた、夢で見たものなのだろう。
タケルには、晶には見えないものが見えている。
晶は、自分と幼馴染の間に放置されていた、麦茶のグラスに手を伸ばし、ぐっとそれを飲み干した。いつからそこにあったのか、飲みかけの麦茶は些かぬるくなってしまっていたけれど、稽古で渇いた喉にはよく染みる。
「今日、夕飯食べてくのか?」
「うん。今夜はカレーだって」
「匂いでわかるよ」
一瞬で空になってしまったグラスを弄ぶことにも飽きて、大きく伸びをし、そのまま後ろに倒れ込む。
真夏の湿度が嘘のように、ひやりとしたイ草の感触に軽く目を閉じた。
「あのね……実は今日、家に帰らないでおこうかと思って……」
夕闇の中、ぼんやりと浮かび上がる幼馴染の背中が、少しだけ躊躇うようにそう言った。
「泊まってくのか? まぁ明日休みだし別にいいけど」
「ありがとう」
「何かあったのか?」
相手の言葉に、どこかしらいつもとは違う様子を感じ、思わず問いかける。
別に、タケルがこの家に泊まること自体はさして珍しい話ではない。家にいたくないとき、帰りたくないとき、タケルはいつだって此処に来たから。プチ家出、なんて言ってしまうと少し大袈裟だろうか。
「いや、そういうわけじゃ……」
探るような晶の言葉に、タケルが一瞬口ごもる。
しかし、僅かばかりの考えるような間の後、結局彼は、困ったような笑みと共に理由を話し始めた。
「ううん。あのね、夜、ちょっとだけ出てこようと思ってて……」
「あぁ、肝試しか」
直ぐにぴんときた理由に、無意識の声に棘が混ざる。
「うん。一度家に帰っちゃうと、たぶんそんな時間に出られないから」
「確かにな」
タケルの家は、というかタケルの母親は、厳しい。深夜に高校生が家を出ることは当然猛反対するだろうし、なんなら山に入るなど、真昼の休日でも許さないかも知れない。
何かと過保護なのである。その理由が、わからないでもないけれど。
そもそも、本当ならば彼女は、タケルが鏡禰神社へ来ることさえも嫌なのだ。泊まるなど、本心ではやめて欲しいに違いない。何せタケルの母親は、この神社と、そして何より晶のことを、蛇蝎の如く嫌っている節がある。
それでもタケルが、此処にだけは自由に来られるのは、ひとえに晶の祖母である加賀嶺いなほの人徳だろう。タケルが此処に泊まる日は、いつも祖母がタケルの家に電話をかけてくれている。タケルの母――洲住小夜子は、幼い頃から面倒を見られていたいなほにだけは弱いようだった。
「まぁ、じゃあ俺は先に寝てるけど、解散したらお前はウチに戻って来いよ。裏口の鍵、開けておくから」
「え、いいの?」
「いいのも何も、他に行くとこもねぇだろ。それとも朝までお山で百物語でもすんのか?」
別に、タケルがそうすると言うのなら止めるつもりはないけれど。チラリと向けた視線でそう言えば、幼馴染は何か恐ろしいことでも想像してしまった様子で、ブンブンと激しく首を横に振っていた。
「ひゃく……いやいや! それは考えてなかったけど……てか、終わった後のこと、全然考えてなかったや」
「馬鹿」
「えへへ、ありがとう。晶ちゃん」
「足とか踏んだら殺すからな」
「うん、気を付けるね」
当然のように口にした提案に、思いのほか嬉しそうな反応をされて、なんだか此方のほうが恥ずかしくなってしまう。
ふやけた麩菓子のような顔で笑う相手から、晶はわざとらしくツンと顔を背けた。
パタンと、小さな音をたてて、スケッチブックが閉じられる。続いて、畳に何か重たいものが優しく降って来た衝撃を感じた。タケルが、晶の横に寝ころんだのだ。
太いフレームの眼鏡の奥から、幼馴染の紺碧の瞳が、じっと真っ直ぐ此方を見ている。
「ねぇ、晶ちゃん。やっぱり晶ちゃんも一緒に――」
「絶対行かねぇ」
相手が全て言い終わる前に、その提案を撥ねつけた。どんなにしおらしい顔をされても、上目遣いで見られても、その可能性だけは絶対にない。肝試しになんぞ、行くものか。
「……だよね」
ただ、取り付く島もない晶の態度に、予想出来ていただろうに一々しゅんと項垂れるタケルの様子には、少なからず胸が痛まないでもなかったが。
こういうところは、卑怯だと思う。
すくすくと、図体ばかりは此方よりも大きく育ったくせに、不意に見せる表情は未だ幼く、ともすれば可憐にさえ見えるところ。
晶は、大きな溜息を吐くと、そんな幼馴染の顔が視界に入らないよう、寝返りを打って相手に背を向けた。
「……そんな顔するなよな。別に、お前やクラスの奴らと出かけたくないから嫌だって言ってるわけじゃないんだから」
口にしたその言葉は、自分で思っていたよりも随分言い訳がましい響きをしていた。
「え、そうなの?」
肝心の幼馴染には、そうは聞こえていなさそうだったけれど。
「そもそも……嫌なんだよ、肝試しっていうイベントが。毎年必ず、誰かがお山に来てはゴミを置いていくし、真夜中に叫ぶ奴もいる。てか、厳密にいえば普通に不法侵入だ」
「なんか……ごめん」
「そういうのいい。お前に謝って欲しいわけじゃねぇから」
鬱陶しそうにならべられる尤もらしい理由に、顔は見えなくとも、タケルが申し訳なさそうに青褪めているだろうことは伝わって来る。
そんなふうな顔をさせたい訳ではなかった。
だから今更ながら、言うべきではなかったかもしれないと、そんなことを思った。思ったけれど、結局一度口に出してしまったものはなかったことにはならない。
自然、きつくなっていく口調を自覚しながら、それでももっと上手い言い方を探しもがくように、半ばやけくそで言葉は重ねられていく。
「あと……そういう曰くありげな場所に、面白半分で近付く神経とか、ぶっちゃけ理解できねぇし! マジでなんかあったらどうすんだよ」
「えっと……晶ちゃんは、お化けとかそういうの、信じてないと思ってた。ちょっと意外」
「いや、別に信じてねぇよ! 信じてねぇけど、だからって無碍にしようとも思わないだけ」
「そういうものなの?」
「そういうもんなのっ」
おっかなびっくりという様子で、そのわりに容赦のないタケルの疑問に、思わず子どもが駄々をこねるような口調になってしまう。
自分で自分が、何を言っているのかよくわからなくなってくる。ぐちゃぐちゃになりかけた頭をどうにかしようと、乱暴に髪を掻きむしったら、直ぐ傍で「わっ」と、タケルが小さく驚いた声を零した。
何故そこで驚く? 俺は暴れ馬か何かか?
幼馴染の大袈裟な反応に、思わず眉を顰め、しかし次の瞬間、なんだか急に脱力した。
バンと、両手両足を大の字に畳へと叩きつけ、仰向けに寝がえりを打つ。
晶の突然の行動とは反対に、隣のタケルは、胎児のように丸めていた手足をビクッと震わせた。
だから、怖がらせたいわけでも、ビビらせたいわけでもないんだって。
そう思い幼馴染をギロリと睨み付け、先ほどよりも大きく息を吐く。まぁ、誤解されるような態度しか取れない自分が悪いということは、百も承知なのだけれど。
「俺は――」
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