第7話 鏡禰神社【3】

「そりゃあ、小さい頃から聞かされているから。耳タコ」

「ははっ、そいつはお前、この鏡禰神社に生まれた者の宿命ってやつだ」


 間違いない。常夜間之加火美根比売は、この社で祀る神の一柱であり、鏡禰神社の創建にも関わるその神の伝説は、幼い頃から寝物語の代わりに、幾度となく聞かされてきた話の一つである。


 仁啓が何を言おうとしているのか、わかるような、わからないような。晶は、ゆるゆると顔を上げると、そっと盗み見るように、祖父の口元に視線を向けた。


「龍……いや、蛇身人頭とも言われている、火鐘山の山神、常夜間之加火美根比売は、業火の鱗を纏う苛烈な気性の神だったと言われている。信仰が浅ければ怒り、供物が気に入らなければ祟る……一説には、毎年のように生贄を欲していたとさえ言われている荒神だ。


 しかし、そこは腐っても土地神。その昔、今は比米守町と呼ばれるこの地にひどい疫病が蔓延した折、加火美根比売はその身に纏う業火でもって、その病をたちどころに焼き払った。だが、あまりにも激しいその炎は疫病を根絶やしにした後も消えることなく、それどころか僅かに生き残った比米守の地の営みの全てを燃やし殺そうとした――」


「で、その事態に人々は火之迦具土大神へと加火美根比売鎮守の助力を請い、それに応えた火之迦具土大神は比売の炎を鎮め、自らの炎を御すことの出来ない比売を火鐘山に眠らせた。この鏡禰神社は、自身でさえ御しきれない炎を宿す加火美根比売を、その力を鎮める火之迦具土大神と共に祀った神社である……だろ。死ぬほど聞いた。俺、その話なら桃太郎よりたぶん詳しいよ」

「そう、そうだ。よく、覚えているじゃないか」


 何度も聞いて来た物語の結末を、奪うように語っても、祖父は怒るどころか、嬉しげな様子で小さく頷く。


 晶は、この話が実のところあまり好きではなかった。昔から、聞くたびになんだか、切ないような、悲しいような気持ちになるから。


 鏡禰神社に生まれた自身のみならず、この町に住む人間なら、大抵一度は耳にしているだろう、ありがちな伝説の、どこにそんな心を傾ける箇所があるのか、自分自身でもよくわからないけれど。


「晶、お前は……このお山で生まれたせいか、少しばかり気性が、加火美根比売に似ているのかも知れないな」

「はぁ?」


 思いがけないその言葉に、思わず怪訝そうな声が出る。

 そんな此方の反応に、それも尤もだと言うように、祖父は苦笑気味に目を細めて話を続けた。


「勿論、伝説の存在である常夜間之加火美根比売が、事実どんな気性の持ち主であったのか、俺にはわからん。わからんがしかし、この神社で生まれ育ち、何十年と過ごしてきたあいだに、思ったこと、わかったこともある」


 祖父の視線が、すぅっと静かに、晶の上から離れていく。また、遠くを……ここにはない何かを頭の中で見詰めるように、その瞳は宙を映していた。


「加火美根比売は確かに、恐ろしい荒神ではあるのだろう。しかし比売が邪神であるかと言えば、それは違うのではないだろうか。少なくとも俺には、無暗に祟り、あまつさえ生贄を求める神であったとは思えん。そうだとすれば比売の眠ると言われるこの山が、これほど優しい理由が、わからない」

「この山が……優しい?」


 祖父の言葉に、晶はそっと眉を寄せた。

 確かに静かで、どこか厳かさを感じる山であるとは晶も思う。自分の生まれた場所でもあるから、ここにいるだけで落ち着くのは間違いない。


 しかし晶はこの火鐘山を、優しい山だと感じたことなど一度もなかった。

 むしろ、ともすれば恐ろしいと、不意に背筋がぞくぞくと粟立つような、そんな感覚を強く覚えていた。


 何か、強大な力に包まれているような。

 気を抜けば、その加護の元、自らの意思をうやむやにされてしまうような、一種の不安を。


 けれどなんとはなしに、わかってもいた。

 そう感じているのは、自分だけなのかも知れないということを。何故か、漠然と。


「じゃあ、じいちゃんは……加火美根比売は、どんな神様だったと思うんだよ?」

「んーそうなぁ……」


 此方の問いかけに、祖父の視線が僅かに揺らぐ。ひどく慎重に考えをまとめるような間を置いてから、仁啓は孫の質問に答えた。


「不器用な神様、かな。愛しく思っているものを、ただ慈しみ、ただ守る。それだけのことが、きっと加火美根比売にはとても難しいことだったのだろう」


 まるで当人、いや、当神を見てきたかのような、ひどく実感の籠った言葉に、一瞬言葉を失った。


 神社の孫として生まれ育ちながら、晶は超常も神霊も、心の底から信じてはいない。それは偏に自らが、自らの目でそういった存在を見たことがないからで、神主なんぞをしている自分の祖父でさえ、訳もなく似たようなものに違いないと思っていた。


 けれどそれは、もしかすると大きな勘違いだったのかも知れない。


 祖父には何か、自分には見えないものが見えているのだろうか。

 不意に首を擡げたそんな馬鹿らしい可能性に、しかし馬鹿らしいと思いながらも、鼓動が速くなる。


「ふーん」


 晶は、自身の動揺を悟られぬように、努めて平坦な声でそれだけ返した。

 と、それまで宙を見詰めていた仁啓の視線が、音もなくまた自分へと向けられていたことに気付く。


「お前にも、そういうところがあるだろ」

「えっ」


 不意打ちのその言葉に、思わず声が詰まった。

 一瞬、何を言われたのかわからなかったが、直ぐに一連の流れの真意に気付く。

 途端、それまで感じたいたある種の緊張と期待が、どっと肩の力と共に、体から抜けていくのがわかった。


「やだよ。やめろよ、変なふうに決め付けんな」

「そうか? まぁ、違ってたらすまなかったが」

「本気で違うし」


 唇を尖らせ、斜に構えて眉を吊り上げる孫の姿に、祖父はまたカラカラとおかしげに笑い声をあげる。


「んじゃあ、これ以上機嫌を損ねないうちに、俺は退散するかね。いなほさんと夕飯の支度でもするよ」

「是非そうしてくれ」


 散々言いたいことを言って、くるりと踵を返した後姿に、呆れたような声でそう言った。

 狐につままれたような、なんだかいいようにからかわれたような、面白くない気分である。


 ただ、ひとりで素振りをしている時に感じていた、何か得体の知れないものに追われているような焦燥感は、不思議と綺麗に消えていた。

 それが、この食えない祖父の確信犯的仕業であるのか否かは置いてくとして。


「晶」


 他にどんな顔をしたらいいかわからず、恨めしげな目で見送っていた背中が、不意に立ち止まる。


 仁啓は、道場の出入り口のあたりでくるりと再度此方を振り向くと、それこそコンビニに出かける孫に、ついでの遣いを頼むような気軽さで言葉を続けた。


「お前は優しい子だよ」


 日の陰り始めた薄暮の道場には、不似合いなほど陽気な笑顔。それは、例えば今仁啓の顔を覆う無数の皺を綺麗に取り払ったとしても、少しも自分には似ていないのではないかと思うほどの、力強い優しさを持っている。


 優しいのはどっちだよ。お節介。

 不意打ちの捨て台詞に、此方がぽかんとしている間に、祖父はまた来た時同様の静かさで、消えて行った。


「…………なんじゃそりゃ」


 ひとりきりになった道場に、ぽつりと戸惑うような呟きが響く。

 それはあまりにも直球過ぎる信頼への、気恥ずかしさで少し、震えていた。

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