第6話 鏡禰神社【2】
鏡禰神社の神主、
白い着物に浅黄の袴を穿いた、齢のわりに姿勢の良い老人は、少し薄くなった白髪を後ろに撫でつけながら、晶のほうへと歩み寄ってきた。
「素振りは、闇雲に剣を振り下ろすことではないと、何度言えば理解するのやら」
「別に、闇雲になんて振ってないって、俺も何回も言っているけど」
「そうは見えんから、こっちは呆れているんだろうが」
指摘された言葉は、自覚があるだけに面白くない。自然、少しむっとしたような表情になりながら晶は祖父から顔を背けた。
静かな空気の震えで、相手が苦笑しているのがわかる。
仁啓はいつもそうだった。どちらかと言えば素直ではない子どもだった晶の、可愛げの態度にも、一々怒ったりはしない。いや、まったく叱られたことがないかと言えばそうではないし、ことによれば驚くほど厳しくされたりもするのだが、そんな時でも頭ごなしに怒鳴りつけてくるようなことは一度としてなかった。
好好爺。その言葉が、よく似合う。
「考え事でもしていたのか」
殆ど足音もたてないように此方に歩み寄りながら、仁啓はそんなことを言ってきた。
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、悩み事でもあるのか?」
「……別に。てか、悩み事のない人間なんていないだろ」
どこかからかうような口調で聞かれて、ドキリとする。咄嗟に上手く返すことが出来ず、明らかに「何かある」ような言葉を発してしまい、堪らず口元に手を当てた。
「ははっ、違いない」
しかし、そんな此方の態度など、まるで最初からお見通しだったとでも言うように、仁啓は鷹揚に笑うと、足を止めた。試合開始に対峙をするような距離感に、無意識に晶の背筋が伸びる。
「そう警戒するな。何を悩んでいるのか、無理に聞き出したりはしないさ」
「…………」
その言葉に晶は、何を考えているのかイマイチ掴み切れない祖父の、皺くちゃの笑顔を探るように見詰めた。
「まぁ、お前が聞いて欲しいのなら、別だが」
「欲しくないです」
「だろうな」
未だ入れ歯とは無縁の、祖父の白い歯が大きく開かれた口から覗く。その笑顔を見ていると、いよいよ突っ張っている自分があまりにも子供じみている気がして、馬鹿らしくなった。
自分は本当に彼の孫なのかと、血の繋がりを疑いたくなるのは、こういう時である。
祖父の笑顔に、無意識に張り詰めていた己の中の何かが緩んだ気がして、同時に晶は大きく溜息を吐いた。
「じいちゃん、本当は全部わかってんだろ」
「ん? なんのことだ?」
「とぼけんなよ」
「ははっ、まぁ、お前の剣筋は、感情が露骨に乗っているからなぁ」
拗ねたように唇を尖らせる此方の態度に、祖父はまた一層明るい声で笑う。
蝉の声が、道場内を満たしていた。その、室内からは決して見付けられないだろう虫たちの姿を探すように、仁啓はすぅと晶から目を逸らすと、どこか遠くを見つめながら、優しい声を出す。
「腹が立つことでもあったのか?」
「そんなの、毎日だよ」
幼子に問うような響きに、自然とまた、此方も幼子のような口調になってしまった。
「なんか……自分の器の小ささが、嫌になる」
「大人みたいなことを言うじゃないか」
「からかうなよ。てか、じいちゃんが思っているほど、もう子どもじゃねぇから」
「そうか、そうか。そりゃあすまなかったな」
定型文じみた高校生の抗議など、どこ吹く風で笑う顔に、刻まれた皺の深さが眩しい。
こういうのを、器が大きいとか、懐が深いと言うのだろう。少なくとも、今の晶の世界にとっては、そうだ。
他人からの攻撃を、柳のようにいなし、自らぶれることなくそこにあれる――そんな祖父が、羨ましくて仕方ない。
「俺にとっちゃ、お前が産まれたのも、つい昨日のことみたいなもんなんだがな」
「はぁ? さすがにそれはボケ過ぎだって」
「失礼な奴め。それくらい、子どもが大きくなるのは早いということだ」
洒落た仕草で首を竦め、仁啓は徐に閉め切っていた板戸を開けた。
元よりない風は吹かない。ただ、不意に濃厚になった涼やかな緑の香りが押し寄せてきた。
「お前が……晶が産まれた日のことは、よく覚えているよ。今日のように風もない、ただ暑くて暑くて、そこにあるだけで身体が芯から燃えてしまいそうな、地獄の蓋が開いた朝、ほのかは産気づいてなぁ。お前を産んだ後の第一声が「あつい」だったってぇのは、まぁ、ばあさんから聞いた話だが」
ほのかは、亡くなった晶の母の名前だ。晶を産んで、直ぐに他界したので、全く記憶にはないけれど。
だからだろうか、祖父や祖母が母のことを、「ほのか」と呼び思い出を語るたび、晶の中で「ほのか」は、自分の母というよりも、祖父母の娘である「加賀嶺ほのか」であるという印象が強くなる。
彼らの娘は、もうこの世にはいないのだ。と、なんだかひどく切ないような、いたたまれないような気持ちを覚えた。そこに、自分自身の存在が介在することなど、少しの実感もないままに。
「しかし、俺も産まれたばかりのお前を抱いた瞬間、はじめに脳裏に浮かんだ言葉は、「熱い」っていうたった一言だったから、なんとなくあいつの言いたいこともわかったよ。赤ん坊とは、こんなに熱いものなのかと、ほのかを抱いたときのことなんぞすっかり忘れて、感心したもんだ」
「なんだそりゃ」
「いや、急にな、思い出したからな」
それがなんの脈絡もない話題転換のように思えて、不意に始まった祖父の思い出話に、たまらず呆れたように溜息を吐いた。
遠くを見る仁啓の横顔の陰影が、傾き始めた陽光のせいばかりではなく、濃くなっている。
蝉の声は、心なしか先ほどまでよりも小さくなっていた。それは、耳がその音に馴染んだせいか、それとも確実に近付いてくる、宵の気配のせいか。
仁啓は、深い皺の刻まれた目元を軽く伏せ、どこか困ったような笑みを浮かべた。
「晶、お前の中には、産まれた時から火が宿っていたのかも知れない。ならば身の内で擽っていたそれが、歳を追うごとに大きく成長し、お前自身を焦がすこともあるだろう」
ゆっくりと、言葉を選びながら語るように、祖父はそんなことを言った。
柄にもない、どことなく不自然な歯切れの悪さは、それを音にするその瞬間まで、口にすることを躊躇っていたような印象を此方に与える。
「なんだよ、火って。漠然としてんな」
「まぁ、神主だからな。たまには抽象的なことを言って、若人を悩ませたりもするさ」
「うわ、迷惑」
「そういうな、孫よ」
冗談めかしてカラカラと笑う相手は、いつもと何もわからない。
けれど先ほど感じた、喉奥に引っかかった小骨にも似た違和感に晶の表情が強張る。
果たして祖父が、突然何を言い出したのか、何を言いたいのか、それははっきりと口にした通り、晶にはよくわからなかった。
ただ、「身の内で燻る火」という言葉が、妙に明確に、頭の中で輪郭を得ていく。
それは、いくつもの火の子を飛ばしながら踊る、赤々とした揺らめきだった。
「お前くらいの歳の頃は、とにかく大抵の人間が、何かと鬱屈を抱えているもんだ。やれ親に腹が立つ、社会が憎い、学校を爆破したいなんてのは、誰もが通る道だろう」
「いや別に、学校を爆破したいとか、そこまでは思ったことないけど――」
「ただな、大人になるということは、その苛立ちと折り合いをつけることだと、祖父ちゃんは思っている。まぁ、直ぐには難しいし、なんなら歳だけ重ねて、それが出来ない人間もいるが」
どこまで本気で言っているのか、相変わらず測り兼ねる飄々とした相手の口調に、二の腕を撫でていた不確かな違和感は、直ぐにその場を走り去っていく。
それでいいのか、判断することも出来ないまま。
仁啓が、その深い色の眼差しを、晶へと向けた。
「お前はきっと、人よりも熱く、大きな火を抱えて生まれてきた。けれどその火に呑まれたくないと、思う心も共に持ち合わせている。俺はな、大事なのはそこだと思う」
確信を持ったその言い方に、ドキリと小さく心臓が跳ねる。
「己を自覚することが、律することの第一歩だからな。しかし、上手くいかないからと言ってさらに苛立っていては、元も子もないぞ、晶」
「それは……そんなの、わかってるけど……」
今度は、祖父が何を言いたいのか、晶にも理解出来た。
晶の抱える苛立ちのその根っこは、つまるところ、理想になれない自らへの苛立ちに他ならない。
こうありたいと、例えるならば祖父のように、いつでも余裕を持ち、穏やかでありたい、凪いだ心を持ち続けたいと思っても、些細なことで癇癪を起す己が憎い。
そしてまた、身近なものへと、やり場のない苛立ちをぶつける。己を抑える暇もなく、条件反射のように。それがさらなる自己嫌悪を生み、怒りへと変わる負のループだと理解しているにもかかわらず。
改めて、他でもない祖父から自身の現状を指摘され、ずんと胃の腑に重いものが落ちてきた。真っ直ぐに相手の視線を受け止めることが出来ずに、たまらず顔を俯ける。
まるで子どもような反応に、果たして祖父はどう思っただろうか。
「加火美根比売の伝説を、覚えているだろう」
急激に落ち込んでいく晶に、ふと突然、耳慣れた祭神の名が聞こえてくる。
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