第5話 鏡禰神社【1】
四方を山に囲まれた、海のない田舎町、
晶の通う比米守高校から、徒歩三十分。ゆるゆるとした傾斜の道の果て、火鐘山の麓にある真っ赤な鳥居をくぐり、急で長い石段をのぼった先にある、古い神社が鏡禰神社だ。
祭神は火之迦具土大神、そして火鐘山の山神と呼ばれる
創建は諸説あり、平安時代というのが有力とされる由緒ある神社ではあるが、そのわりにさほど大きくもなければ有名でもないのは、そもそも、この比米守町自体の認知度の低さ故か、本殿が幾度も火災に見舞われ、改築改修を余儀なくされた歴史故か。
山の緑が迫る敷地内には、二神が相殿する本殿のほか、神主一家――つまり晶や家族の住む社務所兼自宅、半ば地元の少年クラブと化した参集殿など置かれている。
小さく年季の入った道場では、曜日によって祖父が剣道教室、祖母が習字教室を地元の子どもたち向けに開いていることもあり、寂しげな山にあるわりに、境内は比較的賑やかなことが多かった。
逆に言えば、それらの教室のない今日のような日などは、社殿はともかく参集殿のほうになど、誰も寄り付きはしないのだが。
学校を出て、家に帰り着いたのは、午後四時前のことだった。
季節によっては夕刻とも呼べる頃合ではあったが、今は夏。部屋に荷物を置いてひと息吐いてもまだ陽は高く、太陽は沈む素振りさえ見せない。
ただ歩いているだけでも汗が噴き出るような中を、大した用もなく急な石段を上って来る参拝客は少ない。晶は、野良猫くらいしか客のいない境内を横切ると、夕食までの時間を過ごすため、参集殿の道場へと向かった。
教室を開いていない日の道場は、境内に輪をかけてシンとしている。
自分以外の気配はなく、いっそ静けさで息が詰まりそうなその場所が、けれど晶は昔から気に入っていた。
稽古用の剣道着に着替え、木刀を握ると、それだけで背筋が伸びる気がする。
晶もまた、幼い頃はこの道場で開かれている、祖父の剣道教室に通っていた。タケルとふたり、今では、どちらもそのことを、殆ど話題にも出さないけれど。
いや、タケルのほうにしてみれば、出さないのではなく、出せないのだ。当時の話をすれば、晶の機嫌が悪くなることがわかっているから。
まぁ、迂闊な彼はちょうど今日のように、うっかり口を滑らせてしまうこともあるのだけれど。
「――……ッ!」
ひと気のない道場の中央で、虚空に向かって木刀を振り下ろす。
教室をやめてからも、空いている日はこの場所で、そうでないときは家のほうの裏庭など人目につかない所で、殆ど毎日素振りだけは続けてきた。学校の剣道部などに所属しようとは欠片も思わなかったけれど、剣と離れるのはどうしてか嫌だったから。
竹刀、木刀――否、剣を握っていると、不思議なほどにほっとする。
自分が丸腰ではないこと、戦う手段を持ち合わせていることに、密かに胸を撫でおろすように。
祖父に聞かれれば説教されてしまいそうな心持だけれど、正直、型を意識しているかと言えば別にそういうわけでもない。
そんな自分をわかっているということもまた、あえて部に入ってまで鍛錬に励む気にはならない理由の一つと言えるだろう。
じんわりと、背筋に額に、汗が伝っていく。
振り下ろすごとに重みを増すように感じる切っ先に、自然と呼応するように、柄を握る手に力が籠った。
いけない。もっと自然体で、余計な力を抜かなくては。
そうでなくては長く、剣を振っていられない。
集中しろ、と、自らに言い聞かせる。その時点で既に、集中が乱れているのだとわかっていながら。
集中しろ。集中しろ、晶。
蝉の悲鳴が聞こえる。
集中しろ。
頭が割れそうなほどの、大きな悲鳴が。
集中しろ。
泣き声が木魂する。
集中しろ。
やめて、やめてと泣く、甲高い少年の声。
集中しろ。
剣が、肉を打つ鈍い感触。
集中しろ。
地に飛ぶ赤い飛沫――
「相変わらず、切っ先がぶれているなぁ、お前は」
一心不乱に剣を振り下ろし続けていると、不意に背後から聞き慣れた声が聞こえてきた。
その、呆れたようなニュアンスを含んだ低く擦れた響きに、脳裏を占めていた不安な情景がサッと散っていく。
「……っ、じいちゃん……」
弾かれたように後ろを振り返ると、そこにはいつの間にか晶の祖父が立っていた。
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