第4話 美術室の幼馴染【2】

 ぐらりと、世界が一周するほどの強い眩暈を覚えた。

 同時に、身体中の汗腺が開き、ドッと汗が噴き出し始める。


「砂漠に川って、なんか合わないよね。でも――……」


 はにかみながら言葉を続ける幼馴染の声が、急激に遠のいていった。

 その代わり、鼓膜が心臓にでもなってしまったかのように、煩いくらいの鼓動が響く。


 そこは、よくない場所だ。

 自らの意識が、強制的に肉体から切り離されてしまいそうな刹那の中で、直感がそう叫ぶ。


 そこ――そことは、どこだ。

 いや、わかっている。そことは……川なのか。


「……――ゃん、…………晶ちゃん」


 不意に、強い力で肩を揺すられ、晶ははっと我に返った。

 目の前には、眼鏡をかけた幼馴染の、嫌味なくらい端正な顔がある。タケルは、心配そうに此方の顔を覗き込んでいた。


「晶ちゃん、どうしたの? 大丈夫?」

「……なんでもない……ちょっと、ぼうっとしてた」


 気遣ってくれる相手に対して、殆ど条件反射でそう返す。

 本当は、なんでもない訳ではないけれど。それでも、そう言う以外に上手い答えが思いつかないのも、また事実だった。


 触れて確かめるまでもなく、自分自身が気持ち悪いくらいに、いつの間にか汗だくになっていることに気付いていた。


 未だ、鼓動は速い。百メートルを、全力とは言わないまでも、そこそこ本気で走った直後のように、動悸が激しい。


「そう? でも顔色悪いような……あ! 晶ちゃん!」

「……なんだよ」


 気遣わし気な顔をしていたかと思えば、唐突に驚いたような声を上げた相手に、晶は混乱する頭で、如何にも億劫そうに返事をする。


「今日、日直だったっけ?」

「は?」


 意味のわからない相手の言葉に、胡乱な表情で顔を上げた。


「前髪にチョークの粉、ついてる」


 先ほどまでとは一変、クスクスとおかしそうに笑みを噛み締めながら、そんなことを言ってタケルが此方に手を伸ばしてくる。


 殆ど日焼けをしていない、白く、それでいて骨ばった大きい手。

 それが、無遠慮に己の前髪に触れた瞬間、晶は咄嗟に、幼馴染の手を振り払っていた。


「……あ」


 自分でも思いがけないその行動と、必要以上に込められていた力に、瞠目する。振り払われた当の相手もまた、同じような顔で驚いていたけれど。


「…………悪い」


 直ぐには、己の行動が理解出来ず、漸くぽつりとその一言が出てきたのは、たっぷり五秒以上の間を置いてからだったろうか。自分でも、その声に戸惑いが色濃く滲んでいたことがわかる。


「ううん……僕こそなんか……急に手ぇ出しちゃってごめん……」

「いや、それは別に……」


 タケルは、晶の謝罪を聞くと、直ぐに眉を下げ、申し訳なさそうな笑みを浮かべた。


 彼は、ただ晶の前髪についていたのだろう、チョークの粉を取ってくれようとしただけに違いない。

 その親切を、あんなにも強く払いのけた此方を、少しも責めようとしない態度に、ずきりと胸が痛んだ。


 素直に、申し訳なく思う。

 しかしそれ以上に、何故あの瞬間自分があんな行動を取ったのか、今はそれに対する困惑のほうが大きい。


 別に、好んで人に触れたがるタイプではないけれど、僅かな他人との接触すらも忌避したいほど潔癖症というわけではない。見ず知らずの相手ならばともかく、気心の知れた幼馴染が相手なのだから、尚のこと、咄嗟に振り払う理由などなかったはずなのだ。

 なのに、どうして。


 いや、わかっている。

 ひどく、嫌な気がしたのだ。あの大きな手が迫って来た瞬間に、全身の毛が逆立つような。。

 ……大きな手?


「……タケル、ちょっと手、出せ」

「え? なんで……」

「いいから、出せ」


 突然の命令に、困惑した様子の相手を無視して、晶はタケルの手首を掴むと、強引に掌を此方へと向けさせた。

 そして、自らのそれを重ねて、大きさを比べる。


 タケルはその気の弱さとはどこか裏腹に、晶より身長も高ければ、体躯もしっかりとしていた。別段スポーツをやっている訳でもないのに、程よく筋肉質な、ともすればモデルにさえ見紛うスタイルは、眼鏡なんぞでは隠しきれない甘やかに整った容姿と相まって、女子にはまるで王子様のように持て囃されているのも、当然と言えば当然か。

 しかし今は、それはそれとして手の大きさである。


「……殆ど変わらないよな」

「え、え、ぼくのほうがちょっとだけ、大きくない?」

「このくらい誤差みたいなもんだろ」


 細かいことを言う相手に、あからさまな舌打ちをして、改めて重ねた手を見比べた。


 タケルの手は、体格に見合うほどに大きい。けれど、そこに歴然な程の違いはなく、やや向こうの指が長いせいでそう見える程度のものだった。掌に至っては、殆どサイズが変わらない。

 この手を、咄嗟に大きな手だと感じたというのか。先ほどの自分は。


 無意識に、眉間の皺が深くなる。

 自分自身が覚えたはずの感覚が、あまりにも奇妙で信じ難く、首を捻らずにはいられなかった。


「えっと……晶ちゃん、やっぱりなんか変じゃない?」

「変じゃねぇよ」

「けど……」


 考え込むような晶の態度に、先ほどから振り回され続けている形になっているタケルは、不安げな様子で、言葉尻を濁した。


 直ぐに、そういう顔をする。

 人の顔色を、窺うような目。

 心許なげに、最後までは紡がない言葉。


 タケルは昔からそうなのだ。晶の顔色だけではない。クラスメイトの顔色も、大人の顔色も、彼を取り巻く凡そ全ての人間の顔色を、そっと窺っている。


 今だって、なんでもないのだと、変じゃないのだと主張することに無理があるほど、自分の行動は不審だと、晶自身自覚している。

 自分がタケルなら、きっと理由を問いただしていただろう。噛みつくように。けれど、タケルはきっと、これ以上何も聞いてこない。


 晶が黒だと言えば「黒なんだ」と微笑み、白だと怒鳴れば「晶ちゃんが言うなら白なんだね」と困ったように頷く。それが洲住タケルなのだ。


 そんなタケルの態度に、無性にイラつくようになったのはいつからだろう。イラついて当たったところで、向こうは大抵笑っているから、余計に腹が立つのだが。

 今も、「何か言いたいことがあるのなら言え」と怒鳴りつけてやりたいという衝動が、喉元までせり上がっている。


 わかっている。自分の怒りは、相手にとって理不尽なものなのだと。

 だから晶はぐっと拳を握りしめ、自らを落ち着けるべく心の中でゆっくりと数字を六つ数えると、あえて平坦な声を出し、全く関係のない話題を振った。

 いや、元よりその話がしたくて美術室にやって来たのだかけれど。


「そういやお前、今夜肝試しするんだって?」

「え」


 相手にとっては唐突に、けれどなんでもないことのような顔でそう問いかければ、タケルはまさに、ハトが豆鉄砲をくらったような顔で、ぱちぱちと瞬きをした。その尤もな反応に、晶はなおペースを自分で握るべく、言葉を重ねる。


「片倉たちに聞いた。てか、誘われた。普通に断ったけど」

「うそ、断っちゃったの?」

「当たり前だろ。てか、まさか俺が了承するとか思ってたのか」


 半端呆れたような半眼で肩を竦める晶に、タケルは目に見えて落胆した様子で、顔を曇らせた。


「だって……お山なら近いでしょ」

「関係ねぇよ」

「そんな……」


 彼の言いたいことが、わからないでもない。お山――火鐘山は、晶にとってはまさに「庭」のようなものだ。

 実家である鏡禰神社が、火鐘山を少し登った場所に、まさに山にへばりつくように建っている上に、俗なことを言えば土地の権利は代々加賀嶺の家にある。


 本格的な登山をするには些か物足りないと思われるだろうが、それでもそれなりに大きく、緑の深い山の中の全てを把握している訳ではないが、幼い頃は神主をしている祖父と共に、山中に点在する祠を掃除に回ったり、地元の若者や数少ない観光客が置いて行ったゴミを集めたりしたこともあるのだ。そんな家の手伝いも、近頃は学業を言い訳に、随分とご無沙汰になってしまってはいるけれど。


「……もっとみんなと仲良くしようよ。なんでわざと孤立するような態度を取るのさ」

「別に。ただ、面倒なだけだし。てか、鏡沼、行くんだろ?」


 先ほど、香菜の口から出たその名を、僅かに探るようなトーンで口にする。

 その場所の名称が出た途端、タケルは先ほどよりもなお、難しい表情をして、どこか罰が悪そうに頷いた。


「うん」


 その、なんとも言えない弱々しい態度に、思わず大きな溜息が漏れる。


「お前こそ、よく行く気になったな」

「それは……」

「昔、あんな目にあったのに、もうちっとも怖くはないんだ」


 何かを言い淀む相手の態度に、堪え切れず嫌味な声が出た。

 レンズの奥で、はっと、深く陰ったタケルの瞳が揺れる。


 俯いた睫毛の際、右目の横に残る古傷の痕が、どうしたって目に付く。フレームの太い眼鏡と癖毛で巧妙に隠してはいても、そこに傷痕があることを知る晶の目は、いつだって無意識にそれを見ていた。自らの罪を確認し、じくじくと膿み爛れる心に塩を塗り込めるように。


「今も……怖いよ……あそこは……」

「じゃあ、断ればよかっただろ」

「うん……けど、片倉さんがどうしても行ってみたいって……女の子だけじゃ危ないし……ぼく、なんとなくだけど道も覚えてるから……」


 晶の、どこか責めるようなニュアンスの言葉を受け止めながら、けれどタケルは結局、そんな人の良いばかりなことを言って、弱々しげに笑った。


 例え夜道が危ないとしても、それはそんな時間に山に入ろうと言い出した香菜たちが悪いのであり、そもそもタケルが気遣ってやることではないだろうに。


「お前、片倉のこと好きなの?」

「えっ、いや、えっ? 好きって……いや、クラスメイトとしては好きだけど……それ以上の意味はないよ?」

「ふーん」


 目を丸くして、慌てて首を横に振る相手の様子に、鼻を鳴らす。

 別に、幼馴染が誰を好きになり、いつ恋人を作ろうと構わない。構わないけれど、晶は香菜のことがあまり好きではないから、そうならば趣味が悪いなとは思う。


 そもそも幼馴染だというだけで、晶とタケルは性格も趣味も昔から少しも合っていないのだから、当然と言えば当然なのかも知れないが。


「てか、なんで急に、す、好きとか……そういうことになるのさっ」


 顔も良くて背が高くて気弱、よく言えば物腰が柔らかいせいで、いつの頃からかタケルは女にモテる。モテるくせに、未だ「好き」なんて言葉を口にするだけで、恥ずかしそうにするところが、彼らしいと言えば彼らしい。


 クラスの他の男子が猥談で盛り上がり、タケルに話題を振ったときなど、可哀想なくらい顔を赤くしているのを知っている。本当に同い年なのか、疑いたくなるほどの純粋培養。加えて天然で、鈍い。下手をすれば自慰だって、したことがないとか言いだしそうで、少し恐ろしい。


「怖がりのお前が、わざわざ肝試し。それもあの鏡沼に行くなんて、そういう理由でもないとおかしいなと思っただけ」

「いやいやいや、違うよ……! 晶ちゃんも、ぼくが人の誘いとか断るの苦手なこと、知ってるでしょ……」

「知ってる。お前は、馬鹿なんじゃないかと思うくらい、押しに弱い。いや……やっぱり馬鹿なんじゃないか?」

「ひどい……っ!」


 そういえば、と、脳裏にもうひとり、この幼馴染を狙っているだろう少女の顔が浮かんだ。

 他でもない晶自身のせいで、恐らく件の肝試しには、彼女も来ることになるだろう。

 この、どこまでも押しに弱い男が、果たして自分をめぐる女同士の争いの只中でどんな態度を示すのか。心配なような、興味深いような、ちょっとした好奇心がわいた。


 だとしても、そんな一時的な興味だけで、くだらないことがわかっている催しに参加するほど暇ではないが。


 何より、鏡沼には行きたくはない。


「まぁ、なんでもはいはいって聞いてればいいさ。それで苦しむのはお前なんだし。俺には迷惑かけるなよ」


 あえて念を押すように、強めの口調でそう言ったそのとき、不意に、どこからか低く唸るような、静かな振動音が聞こえてきた。

 恐らく、携帯電話のバイブ音だろう。咄嗟に晶は己のズボンのポケットのそれを確認するが、震えてはいなかった。


 タケルも、その音に気付いたらしい。彼もまた手にしていた絵筆とパレットを置くと、近くの机の上に置いてあった学生鞄へと手を伸ばす。

 どうやら、タケルの携帯電話のバイブ音だったらしく、そのまま画面に視線を落とした。


「なんか連絡?」

「うん。噂をすれば、片倉さんから……」


 そう答えるタケルの顔が、見る見るうちに難しいものになっていく。どうやら、あまり良い内容ではないらしい。


 少し内容は気になったけれど、それ以上になんだか面倒臭そうな気配を感じて、晶はくるりと踵を返すと、教室のドアに向かって歩き出した。片倉香菜関連ならば、肝試しの件に違いない。それなら何か相談されるよりも先に、逃げてしまうに限るのだから。


「じゃあ俺、帰るわ」

「えっ、帰っちゃうの?」


 晶の声に、眉を寄せて携帯電話を見ていたタケルが、慌てて顔を上げる。


「学校にいても、やることないし」

「晶ちゃんも、美術部入ればいいのに」

「やだよ。絵とか興味ない」


 ガラリと乾いた音でドアを開け、立ち止まって幼馴染を振り返った。

 タケルが、まるで捨てられた仔犬のような目で此方を見ている。図体ばかり大きく成長しても、その不安げな眼差しは、幼い頃と何も変わらない。


 いつだって、泣きながら晶の後をついてきた、晶よりも小さな少年。あの頃から、外で遊びたがる晶に反して、タケルは家の中で遊べる雨の日を喜んだ。


「じゃあ、運動部は? 運動神経良いのに勿体ないよ。剣道部とか……」

「絶対に嫌だ」


 剣道部、という単語に僅かに眉を寄せる。ごくさりげなく、なんの気まずさも滲ませずに相手の口から出たその言葉に、カッとなって語調が強くなってしまった。


 駄目だと、これ以上余計なことを言うなと理性ではわかっているのに、堪え切れずに自嘲気味な声が溢れる。


「剣道部なんか入って、また誰かに怪我させたらどうするんだよ」


 そう続けられた晶の言葉に、一瞬ぽかんとしていたタケルも、一拍置いてからはっとした表情をして、口を噤む。


「あ、ごめん……でも、もう――」

「じゃあな」


 申し訳なさそうにするくせに、相手が今にも此方の神経を逆撫でする一言を付け足そうとしていることを察して、あえて突き放すようにぴしゃりと別れの言葉を告げた。


 同時に、幼馴染へ背を向けて、美術室を後にする。

 いつも祖父母には、ドアの開閉は静かにしろとしつこく言われているけれど、またしてもそれを破ってしまった。

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