第3話 美術室の幼馴染【1】
職員室に日誌を届け、その足でさっさと帰ろうかとも思っていたけれど、やめた。少しだけ寄り道をすることにする。
一階の職員室を出て、生徒玄関を通り過ぎ、先ほど後にした二階もまた足早に階段で駆け抜け、三階へ。
廊下に、生徒たちの姿は殆どなかった。鬱々とした試験期間が終わり、夏休みを目前に控えた週末ということもあり、部活のない者はさっさと学校を出て自由を謳歌し、また部活に専念している生徒たちは、それぞれ試験期間中の鬱憤を晴らすかのように全力で取り組んでいるのだろう。
三階の西階段の直ぐ横にある音楽室から、吹奏楽部の練習音が聴こえてくる。まだ曲の形をなしていない金管の音を背に、晶は三階の逆端に位置する美術室へと向かった。本来ならば東階段から昇れば近いのだけれど、職員室が西階段寄りにあったのだから、仕方がない。
「また、ひとりかよ」
ガラリと無遠慮にドアを開け、直ぐに視界に入った背中に声をかけた。ノックもしなかったのは、どうせこの教室には、「彼」しかいないことをわかっていたからだ。
教室の後ろのほうで、二十号のキャンバスに向かっていた大きな背中が、その声にピタッと動きを止める。
窓から入る陽射しで、色素の薄い髪が普段よりもいっそう茶色く見えた。晶と同じ、夏服の白い開襟シャツを着た少年が、ゆっくりと此方を振り返る。
「晶ちゃん」
「なんか、みんな忙しいみたいで。でも、ぼくは絵が描きたかったから……ようやく、試験も終わったし」
「忙しいなんて言って、どうせ殆ど幽霊部員なだけだろ。美術部は」
タケルの他に、絵を描いている部員など見たこともない。
人の良さそうな眉を、少し困ったように下げる相手に、呆れた声を返しながら、晶は後ろ手でドアを閉め、タケルの傍へと歩み寄る。
普通教室よりも広い美術室。その美術室の中でも、とりわけスペースの空いている教室の後ろが、タケルの定位置だった。
「仕方ないよ。人には、描きたいときと、そうでないときがあるんだし」
「そういうもんかよ。俺にはよく、わからないな」
「晶ちゃんは昔っから、図画工作が苦手だもんね」
窓枠に切り取られた青空を、斜めに見るような角度で置かれたイーゼルを、タケルの後ろに立って覗き込む。
こじんまりとしたサイズの布張りのキャンバスには、どこか異国の風景が描かれていた。
ビロードの夜空に、ナイフで切れ込みを入れたかのような細い月が浮かんでいる。その寒々しい光に照らされた地上は、雪原にも見紛おうかという、ほの白い砂漠が広がっていた。
「相変わらず、寂しい絵」
「そうかな? この遠くにある町とか、結構綺麗に描けたと思うんだけど……」
タケルの指さす場所を見ると、確かに小さく、人工的な灯りのようなきらめきが見えた。これが遠くの町だと言われれば、まぁそう見えるし、砂の海を往くイカ釣り船だと言われればそちらもまた納得してしまう。
「よく、わかんねぇ。小さ過ぎ」
芸術にはとんと疎い晶の目から見ても、タケルは昔から絵が上手い。にもかかわらずいつも、あまり大きな物を描こうとしないのは、本人の控えめな性格故か。それとも、何か強いこだわりがあるのか。そういえば、その点については聞いてみたことはないかも知れない。
まぁどちらにせよ、上手いとは思っても、晶はあまり、タケルの絵は好きではないのだけれど。
「そっかぁ……夢で見たときは、すごく綺麗だと思ったんだけど……ぼくの力量不足だなぁ」
「あぁ。また、『夢の絵』か」
「うん。今年は特に暑いからかな。寝苦しくて、よく夢を見ちゃうんだ」
どこか言い訳じみたその言葉に、ちらりと相手の横顔を盗み見て、晶は心の中で、「またそれか」と、密かに溜息を吐いた。
「……今回は、砂漠なんだな」
「砂漠の夢は、比較的多いから。遠くに、あんなに賑やかそうなオアシス……町が見えたのは初めてだけど」
「この絵を見る限りかなり距離がありそうだけど、よく町だってわかったな」
「それは、わかるよ。夢の中でちゃんと、あそこは『町』だってわかっているんだもん。それも、すごく綺麗で、平和で、栄えている町だって」
「へぇ」
熱っぽく語るタケルの言葉に、晶はそれ以上どう反応したら良いかわからず、温度のない声でそう呟く。
この幼馴染は、こと彼の「夢の場所」の話となると、力が入る傾向にある。昔から、そうなのだ。一番最初がいつ頃だったか、もう晶には思い出せないし、話が長くなりそうなので、あえて相手に問うてみようとも思わないのだけれど。
洲住タケルは、幼い頃からよく、同じ場所の夢を見るらしい。
それは時に煌びやかな装飾品で飾られたおとぎ話の宮殿のような場所で、また時には荒涼とした砂漠の真ん中、剥き出しの岩肌が迫る洞窟、打ち捨てられた神殿じみた遺跡と、話を聞く限りまるで別々の場所の夢ようにも思えたけれど、タケルの中では全てが「絶対に同じ場所」の夢なのだという。
果たして彼が、何を根拠にそう言っているのか、あくまで語られる側の晶にはよくわからない。
けれどその夢について語る時のタケルは、普段では考えられない程、揺るぎない声をしているから、どうにも真正面から馬鹿にしたり、否定したりする気にはなれなかった。
それでもタケルは、晶が言葉に出さずともどこか半信半疑なことに、気付いていたのだろう。
いつの頃からか彼は、夢で見た風景を絵に描くようになっていた。最初は鉛筆で簡単に、そのうちにそれらはクレヨンや色鉛筆、水彩絵の具で色付けられ、今では本格的に油絵として。
その過程を隣で見守り、完成品を逐一見せられていた此方としては、技量が上がり、彩が鮮やかになればなるほど、その出来栄えの美しさに反して、どうにもあまり好きではないなという感情を、持つようになってしまっていたのだけれど。
何せ、寂しいのだ。タケルが夢で見たと言って描く風景は。いつだって美しさと静謐さの奥に、もの悲しさとどこか背筋の寒くなるような恐ろしさを湛えている……ような気がする。
「お前って、本当にちょっと不思議ちゃんだよな」
「え、そんなことないよ。たぶん、ストレスが強くなると、それに対する逃避願望が夢に出ちゃうんだろうなって、自己分析はしてるし」
「自己分析ねぇ……」
回りくどいような幼馴染の説明に、思わず晶もまた、口の中でその単語を呟く。
恐らく、タケル自身のその分析は、いい線をいっているだろう。
晶がそれに気が付いたのは確か小学校高学年になった頃だったが、タケルが不思議な夢を見るのは、いつも彼が晶の家に逃げ込んでくるのと前後していたから。
つまるところそれは、家で何か――いや、十中八九彼の実の母親と、何かがあったタイミングということだ。
今回も、試験のストレスなどと言っているが、実際は母親絡みで何かあったに違いない。いよいよ父親も関わっているかも知れないが、タケルが語らない限り、晶から尋ねる気は毛頭なかった。
「てか、なんか、テレビでこういうとこ見たことある気がする」
だから、結局は話題を僅かにそらせるような、ネタを探す。
口にした言葉に嘘はなかったけれど、果たして本当にテレビで観たのかと問われれば、実のところ自信はない。
いや、勿論全く見覚えもないのにそんなことを言ったわけではないのだけれど、月夜の砂漠などというモチーフは、ありきたりと言えばありきたりで、どこかで見たような気になっているだけのようにも思えた。
「本当? どこの国?」
「いや、そこまでは覚えてないけど……」
「ぼくも一緒に観たやつかなぁ? それを覚えてて、夢に出て来たとか……」
「知らねぇって。ほんと、そこまで覚えてないし……」
思いのほかの相手の食いつきに、少したじろいでしまう。
何気なく言うにしても、話題をしくじったかと思ったその時、ふと、それまでは気付かなかった、絵の中のあるものに気が付いた。
「てか、この線なんだよ。ここだけ、浮いてねぇ?」
晶が指さしたのは、細く、そして薄らと引かれた一本の線であった。
青緑色の絵の具で、どこか頼りなげに描かれたそれは、キャンバスの右下からちょうど縦の半分ほどまでに向かって、よたよたと引かれている。
はっきりと「何」と表現しようのない、あくまでも線にしか見えないそれは、ともすれば誤って筆が擦った痕のようにも見えた。
「あ、そこはこれからちゃんと描くところで……」
此方の問いで、今その存在を思い出したかのように、タケルは答える。
「今朝の夢で見えたものを、なんか合いそうだからこの絵に描き足そうかなって」
「今朝も見たのか」
「うん。まぁ、試験期間中だし、気が張ってたのかな……」
曖昧に笑う様子を見ると、もしかすると晶が思っている以上に、彼は頻繁にその場所の夢を見ているのかも知れない。
「今朝のは……なんかちょっと、嫌な夢だったなぁ」
ふっと、灯りの大きさを一つ変えるかのように、タケルの表情が陰った。
「珍しいな」
「だよね。だから、いい夢の絵に混ぜて、中和出来たらなぁなんて」
困ったように眉を下げる幼馴染に、無意識に晶の眉間にも皺が寄る。
夢のことを話す時は、いつだって彼は楽しげで、少し興奮していた。今のように表情を曇らせていたことなど、覚えている限り初めてのことである。
そのせいだろうか。なんだか、嫌な予感がした。
「で、これってなんになるんだ?」
何故だか無性に、それを聞くべきではないような、そんな思いが過る。
けれど、そう感じた時には既に、晶の口からその問いは紡がれていた。
タケルの、髪と同じく少し色素の薄い瞳が、どこか遠くを見るような目で、キャンバスの線を見詰める。
太いフレームで縁取られた、たいして度数の高くもない眼鏡の奥で、陽の角度のせいかその目が、青い波が揺れるように見えた。
「川だよ」
そっと、後ろから肩に触れるように、彼は呟く。
「川……」
晶はただ、タケルの答えを咀嚼すべく、口の中で繰り返した。
その瞬間突如、背中から心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃が走る。
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