<第三章:星の瞳> 【03】


【03】


 ヤバイな、これ。

 あの悪意を持った宇宙の一部だ。しかも、人の意思で研がれた分、隙がまるで見当たらない。

 防ぐ術が――――――


「止まれぇぇぇぇえええ!」


 気合の乗った可愛らしい声が、空から降りてくる。

 降り立ったキヌカは、秒針のような槍で宇宙の斬撃を受け止めた。視界を闇が覆い尽くし、中で瞬く無数の瞳が俺たちを見つめる。

 闇は一瞬退き、また斬撃となって迫る。

 黒い雪崩のような斬撃を受け止める度、小さい体は押される。

 俺はなんとか立ち上がろうとするも、ダメだった。人間の限界を超え過ぎた代償だ。最早、なんの力も残っていない。

「馬鹿野郎。来るなって言っただろ」

「違う! 触手を追っかけて、空間に開いた穴に跳び込んだら、偶然あんたの前に落ちただけ! それだけ!」

「ははっ………なら仕方ねぇ」

 俺はもう笑うしかない。

 キヌカは、宇宙の闇を槍で受け止め続ける。手足が軋み、生身の部分が血を流しても止めない。死ぬまで止めないだろう。

 なんて女だ。

 俺の言うことなんて聞きやしない。

 ほんと、ある意味、俺とユージーンは似ていたのかもしれない。だが、決定的に違うところがある。

 キヌカの体より、ボイドが先に限界が来た。闇を大きく弾くと、音もなく秒針の槍は消滅した。

「飛龍!」

 キヌカは振り返り、俺に飛びつく。

 俺は最後の、最後の力で、彼女を抱き締めた。

「一緒だから」

「ああ、そうだな」

 ユージーンは、刀を振り上げ止まっていた。

 俺は笑って見せてやる。

 どうだ?

 これがお前と俺の違いだ。お前の女と俺の女の違いだ。

「一緒に死んでやる気概もないのに、女を愛したつもりになってんじゃねぇよ」

 ユージーンの顔が歪む。

 嫌悪と憎悪、わずかばかりの同情と憐憫。人間らしい感情だが、それが今、俺たちになんの意味があるのか。

 しかしまあ、うん、惚れた女を抱いて死ぬとか。素晴らしい終わり方だ。何の価値も、意味もなかった俺にしては、上等過ぎて夢かと思う。

 この手では何も掴めないと思ったのに、今は違う。違うのだ。

「うん、悔いはない」

 俺に悔いはない。

 俺には………………でも、と考えてしまう。

 今際の刹那、迫りくる刃を見ながら思ってしまう。


 キヌカに悔いはないのか? 


 こんな俺に付き合って、一緒に死んで、自分がやりたかったことを一つでも叶えられたのか? 聞けばよかった。くだらない恥なんか捨てて、ただただ聞けばよかった。

 ああ、悔いだ。

 こいつは悔いだ。

 これだけが悔いだ。

 いや、セックスもしたかった。

 二人で映画も観たかった。

 コンビニを買い占めるとかいう馬鹿な夢も叶えたかった。

 あれ、全然悔いあるじゃねぇか。

 うわ、死にたくねぇ。


「そうよ。人間の欲望に終わりはないわ」


 世界が凍る。

 時が止まる。

 ユージーンも、その刃も止まり、キヌカの体温すら止まる。

 全てが停止した世界に、ひょっこりと女が現れた。

 闇よりも黒い長髪、闇に映える白い肌、人形のような整った美貌、蠱惑的な細い首筋。スカートタイプの制服姿で、脚はタイツに隠れている。

 女は笑みを浮かべていた。

 張り付いたような不気味な笑み、支配者の笑み、いや仮面か?

 今だからわかる。

 こいつは人間じゃない。

 あの図書館のキューレーターと同じ存在。いいや、あいつらの背後にいた支配者と同等の存在。ボイドが、異常な存在が、何かの気まぐれで人の形をしているだけ。

「地獄は堪能した?」

「あんた誰だ?」

「あなたにボイドをあげた親切なお姉さんよ。路傍の石でも、磨けば光るからね。君は良くやった方よ。でもまあ」

 女は、迫りくる闇の刃を指でつついた。

 世界が止まったというのに、闇は女の指先を削る。

「私の都合で、君の時間を切り取っているけど。こりゃダメね。逃げられないし、防げない。到来種を刀に加工するとか、ナンセンスだなぁもう」

「で、何を、しに来た?」

 震える。

 この女が、死よりも恐ろしい。

 強大だから恐ろしいのではない。見えないのだ。この女の目の奥が、思考が、欲望が、意思が、意味が、何も見えない。闇の底よりも未知なのだ。

「あははははは! やだなぁ、助けにきたに決まってるじゃない。君、このままだと死ぬよ? 大事な大事な、キヌカちゃんも死ぬよ? まだやりたいことがあるんだよねぇ? 死にたくないよねぇ?」

「だから、何ができる?」

「あの男を殺してあげる。キヌカちゃんを生かしてあげる。だから――――――」

 ああこいつは、悪魔の契約だ。

 絶対に碌なもんじゃない。

「君の体をちょうだい」

「………………」

 斬撃が少しずつ近付く。止まった世界が動き出そうしていた。

「決めるなら早くね。迷っていいのは一瞬だけよ」

 人生で、一番長く早い一瞬だった。

 最後にキヌカを思いっきり抱き締める。止まった時の中では感触はわからない。だから、思い出から感覚を呼び覚ました。

「俺の体はくれてやる。だから、キヌカを助けろ。ユージーンを殺せ」

 左手から俺の体が変わる。

 目の前の女に置き換わっていく。

 そして意識も溶けて――――――


 ――――――私が目覚めた。


 迫る闇を素手で薙ぎ払う。

「痛っ~~~たいなぁ! もう! 爪が剝がれちゃったじゃない!」

 小指の爪が剥がれた。

 流れ出る血で、口に紅を差す。

「ッ!? 誰だ? あの男はどこに行った?」

「ヒ・ミ・ツ」

 男に笑って見せる。

 不愉快な男だ。心が完全に他人の者になっている。よし、死ね。殺す。

「あなた誰!? 飛龍は!?」

「ちょっと待っていてね。キヌカちゃん」

 彼女は、驚いた様子で私の腕から離れた。不愉快だが一回だけは許そう。後で滅茶苦茶にして、私のことしか考えられないようにすればいい。

「起きなさい」

 命じる。

 水槽の残骸を跳ね除け、蛇体の女が私の傍に寄る。

 髪や肌が私に似ていた。飛龍が潜在的に感じた女性像が投影された姿だろう。

 気に入らない姿だ。

 女は可愛ければそれで良い。可愛げがない女は私だけでいい。

「ユルル、キヌカちゃんを連れて遠くに行きなさい」

「待って! 飛龍はどこ! どこに行ったの!」

「後で沢山、愛し合いましょうね」

 ユルルに担がれ、キヌカちゃんは退場した。

 私は手を振り見送った。

 さぁて、深呼吸を一つ。

「んん~ん。血と汗と臓物、生と死の匂い。シャバの空気は最高で最悪ね。早くキヌカちゃんを吸って口直ししないと」

「女。君はボイドか? 人間か?」

「あんたの立派なイチモツに聞いてごらんなさい」

 男の持つ刀が暴れだす。

 人の汚濁を求める、到来種の本能だ。性欲を抑えられない盛った猿のような動き。

「ボイドだな。それも、とびきりのボイドだ。君を水槽に沈めれば、次こそはカナリアが蘇る」

「誉め言葉かしら? ごめんなさいね。私、約束は守る義理堅い女なの。飛龍にあんたを『殺す』って約束しちゃったから、惨めな捨て犬のように命乞いしながら、まあ死んで」

 男は、刀を構えた。

 本当に男の子は棒切れ遊びが好きなようだ。

「やってみろ。やれるものならな。この星の太刀とどう戦うつもりだ?」

「バーカ。力押しに決まってるじゃない」

 本物の地獄を見せてあげる。


「おいで、ヘル・ゲート」

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