<第二章:ソロモン・グランディ> 【20】
【20】
槍から力が流れ込む。
血が騒ぎ、肉が蠢き、骨が軋む。
人のタガが外れる。
人の域を超える。
俺は、別の生き物になった。
草原を蹴ると大地が爆ぜた。風をまとい、たった二歩でエリンギに肉薄。
無数の触手が踊るが、全てが遅すぎる。
一撃だ。
頭部を槍で貫き、地面に叩き付けた。
赤い錆びの塊となり、エリンギは塵と消える。
こいつが、どのエリンギなのかは区別できていない。子供みたいに騒いでいた奴らの一体だろう。
だから、どうなのだ?
どうということはない。どうということはない。
それよりも、憎い。
ただ全てが憎い。
真紅の感情に脳が塗り潰される。
足りない。
もっとだ。
もっと壊――――――ミギギッと内側から壊れる痛み。
「ッ、止まれ!」
穂先の一部が“ささくれ”ていた。
集中して変化を止める。一瞬、気を抜いただけで思考まで影響を受けた。
急がないとヤバい。
「ボロ! オリジナルの位置は!」
『あちら253メートル先、他の個体と離れ一体だけになっています』
ボロの指した先に向かう。
走る。
走った。
獣のように。
背後で何かの唸り声を聞いた。傍で生温かい吐息を感じる。
並走する存在を感じ取った。
見えないが、いるのだ。
風になったように走る。
ただ全力で走るだけの行為に、どこまでも自由を感じた。がんじがらめの現実を忘れることができたからだ。
何も考えず、ただ走るだけの行為に幸福を感じている。
群れの一匹として、純粋に、俺は、それは何の?
何の生き物の?
湧いた自問に答えはいらない。
ただ速く、強く、無慈悲に敵を倒すだけでいい。
今はそれで十分だ。
「どうしたのだ? その姿は」
「俺のセリフだ」
マネキンのようなモノが立っていた。
白い長身痩躯のヒト型。体毛の一切がなく、顔のパーツは目と口だけ。纏ったボロ布の合間から、手足の球体関節が見える。
「前の姿では十分な性能を発揮できぬ。故に進化した」
「所詮、人形止まりか。オリンギ」
人には足りない人形の姿。人を模したモノの最後に相応しい姿だ。
「所詮、人形とな。人を捨てかけている飛龍が、それを言うのか?」
「忘れたのか? 人間は自己申告制だってな。どんな姿になろうとも、最後まで叫び続けりゃ人間なのさ」
「良かった。飛龍はまだ人間なのだな」
彼我の距離は10メートル。一歩で詰めて、一手で獲る。
イメージ通り俺は跳んだ。
必殺の槍でオリンギの頭を貫く。衝撃と突風が生まれた。
――――――貫けなかった。
オリンギの持つ、純白の槍に俺の槍が受け止められた。
「猿真似か!」
「良い物を真似て何が悪いのだ」
色違いの同形の槍。
いいや、
「所詮は偽物だ」
白い槍が錆び、赤に染まり塵となる。槍を返し、再びオリンギの頭を狙う。
寸でのところで別の槍に受け止められた。
極限に満ちた力でオリンギを跳ね飛ばす。受けた別の槍は赤く塵に、俺は追撃に走る。
柔くはないが軽い。
一刺し、一振りする度にオリンギの体は飛ぶ。偽物の槍も一撃しか耐えられない。
そんなんで俺に、
「ちッ」
違和感に気付いた。
こいつ“軽すぎる”。
六回目の肉薄、からのフェイント。
俺は槍を止めて、左手でオリンギの腕を掴む。軽い体を振り上げて地面に叩き付けた。人間なら原型を留めないほどの力で踏む。
踏み付けて、踏み付けて、半ば埋める。
「ふむ」
これでもまだ、オリンギは余裕だ。
新たに現れた模造の槍が咲いた。
無数の触手となり、俺を包み込もうとする。一瞬、ほんの一瞬だけボイドの停止を止めた。
赤い穂先が暴れ狂う。
無数の刃となり、触手の全てを切り裂く。
思考にノイズが走る。全身に痛みが走る。手元から離れようとする槍を、心で制す。
再び一槍に。
最後の一突きを振り上げた。
「うむ、戦いでは勝てないのだ」
オリンギの声に諦めはない。俺に油断はなく、迷いもない。
さらば、と胸中で別れを呟くほどに確かな一手。
「飛龍、恐縮だが死んでくれ」
言葉など知るか。言葉などで俺の手は止まら――――――
「!?」
――――――止まった。
固まったまま俺は草原に転がった。
体が一切動かなくなる。
金縛りなんてもんじゃない。細胞の全てが生きたまま凍り付いたようだ。まばたきも、呼吸も、心臓すら鼓動を止める。
暗くなる視界が最後に見たのは、俺を見下ろすオリンギの姿。
「我らはいずれ人に変わり、人と代わるのだ。故に、人に命じるくらい造作もない。こんな手は使いたくはなかったが、人のまま死ねるのは幸運と言える」
音も止み、
血も止まり、
俺の命が終わる。
………………………………
………………………
………………
………
遠吠えを聴いた。
これは、あの椅子の声か? いいや違う。あれはもっと暗く赤く。こんな悲しげな音はしない。悲しげに飢えた声では鳴かない。
犬が、俺の背後で吠えている。
黒い犬が、俺の胸で、俺の腹で、オウオウと吠えている。
肥え太った黒い犬が、俺の腕で、俺の腿で、狼のような真っ赤な口をあいて、悩ましく吠え叫びながら、俺の体中をうろうろと歩いている。
立って戦えと、ボイドを食らい尽くせと、そのためならば新たに命をくれてやると。
あの女のように俺に囁く。
「何だ、それは?」
血が燃える、肉が爆ぜる、骨が隆起する。
人のタガを破壊した。
人の域を超過した。
俺は本当に、別の生き物になった。
四肢を使い立ち上がる。
暴れ始めた槍は、大口を開けて腹に戻した。どのみち、この手じゃ扱えない。いや、この足か。
やけに小さく見えるオリンギを見下ろす。
気付くと俺は、大きな獣になっていた。
黒い獣に、飢えた犬に、ただボイドを喰らうモノに。
「完全に人を捨てたのか。そこまでして、我を殺したいか」
獣は答えない。
ただ、獲物を食い殺すのみ。
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