<第二章:ソロモン・グランディ> 【14】
【14】
解放した瞬間、俺と騎手の間に奴は現れた。
ボロい革張りの椅子だ。暗闇であり、背もたれしか見えないが、前と全く同じに見えた。
おかしい。
俺のボイドは、破壊したボイドを再構成する。形状の変化は、その効果の表れなのだ。目に見えた変化がないとなれば、嫌な予感しかない。
騎手が、椅子を素通りした。
「いッ」
左腕に激痛が走る。病の蝕みなど比べ物にならない痛み。自分の魂が砕かれるような痛みだ。
とても大きなものが、ひび割れる振動を感じた。
喉元に大鎌の切っ先が――――――同時に、世界が赤黒く変わる。
騎手と馬が停止していた。
病を振りまく死そのもののような存在が、刹那で錆びの彫像になっていた。
「鬼が出るか邪が出るか」
ここからが博打だ。
ひたりと、彫像に触れる手があった。
爪の伸びた青白い人の手だ。一つではない。膨れ上がるように現れた幾つもの手が、彫像を包み込み抱き寄せる。
闇の底から生まれるように、手は椅子の傍から出現していた。
無数の手が彫像を椅子に近付けると、何かがそれを喰らった。
見えない口で彫像をかみ砕き、少しずつ咀嚼して、どこかに飲み込んでいる。
何なんだ、これは?
闇の中に何かがいる。
溶け落ち見えないはずの左目が、弱り切った視力が、確かに何かの存在を見ている。見ているはずなのだが、闇が邪魔をしている。
「止まれ」
止まれ、と念じ命じる。
「止まれ!」
椅子の食事は止まらない。
「戻れ!」
俺の言葉には、何の反応も示さない。
こいつとは、ユルルとのような“繋がり”を全く感じない。
考え違いをしていた。
俺はこいつを、“視界に入ったものを全て錆び付かせる椅子”だと思っていた。
違う。
嫌な確信がある。
こいつは、このボイドは、“超常の何かを封じた椅子”だ。封じる箱に過ぎないのだ。錆び付かせる力は、封じたモノから漏れる力の一片に過ぎない。
つまり、俺のボイドが破壊して再構成したのは、こいつの封だけだ。それも劣化させた可能性が高い。明らかに前に感じた時よりも圧がある。
おまけに、肝心の封すら制御できていない。
彫像に残っているのは、馬の後ろ足だけだ。視界が開けてしまう。
ならば、手は一つ。
もう一度破壊して、封ごと中身をヘル・イーターに戻す。
騎手が食われた今、病の侵食は止まった。だが病の蝕みで、俺の体は死人に近い。辛うじて動くのは右手と左足だけ。
椅子との距離は20メートル。片足で行くには絶望的な距離。
クルトンを投げても、ギリギリ食事の終わりに間に合うかどうか、そも、この震える手で正確に投げることができるのか?
ここ最近で、とびきり分の悪い賭けだ。
ああでも、いつも通りの地獄か。
楽に慣れちゃいけないな。
ポケットからクルトンを取り出そ――――――小指に紐状の物が引っ掛かる。
「?」
時間の無駄など許されないのに見てしまう。
ザイルのような白い縄だった。
縄は俺の足元から地面に這い、椅子の真下、闇の奥にまで続いている。
これ、エリンギの死体からできたものか?
予感に体を動かされる。
俺は極自然と縄を強く握り締め、全力で引っ張った。
至る所から白い縄が現れ、投網のように広がり椅子に絡み付く。
片足で踏ん張り、一本釣り。
椅子が闇空に浮かぶ。
「食い意地張ったのが、失敗だったな」
逆手で持った剣を、引き寄せた椅子に突き刺す。
地面に叩き付け、そして両断した。
左腕に更なる激痛を味わわせて椅子は消える。
「お前はもう、使ってやらん」
最悪のボイドだ。ああでも、ボイドは元からこういうもんか。
「うっ」
吐血した。
まだ吐く血があったことに驚く。体中が病のせいでグズグズなのだ。出血していないところの方が少ないだろう。
こんどばかりは、ここま、で
少し意識を失っていたようだ。
ズリズリと引きずられている。
目を開けると、青空が見えた。落ち着く青さだ。
あ、全身がめっちゃ痛い。頭痛い。苦しい。死ぬ。死にそう。
「ガーリーバ」
「ガーリーバー」
「ガリガリガリガリ」
「ガーガリガリ」
「ガリって何なんなんなん?」
「お口直し」
視線を下げると、エリンギたちが俺の足を持って引きずっている。
助けてくれているのか?
「人間ボロボロ、ボーロボロ」
「そこらの糸でぬーいぬい」
「修理、修理」
「あの糸って何なんぞ?」
「落ちてたワレらの体~」
「ワーオ、エキサイティン」
「ただちに影響はございません」
助けてくれているんだよな?!
「俺、マタンゴみたいになるのは嫌だぞ」
「人間覚醒した」
「キメたのか?」
「これはキメましたな」
「キメてねぇよ。お前らが変な薬でも打たない限り………打ってないよな?」
『さぁ~』
怪しい返事がハモる。
「誰か怪しいお薬あるかー? おかわりー」
「辛いのと甘いのある」
「塩と砂糖じゃーん」「じゃーん塩と砂糖!」
「………オチ先言うのいくない」
「手品中にストップって言うくらいいくない」
「死刑ですな」
「万死に値します」
「切腹してお詫びします。ところで、ワレらの腹ってどこ? ここ?」
頼むから、死にかけの人間の前でコントをするな。
「割と俺、死にかけなんだが」
なんにせよ急いでくれ。
「生き物は、いつか皆死ぬらしいかと」
「死んでみないとわからないぬぁー」
「ワレら死ぬと糸になるん?」
『さぁ~?』
「人は死ぬと何になるん?」
「冷たい肉」
「主に腐肉」
「返事がない、ただの屍」
「思い出」
「それって哲学ぅー」
「ここは、人間にも聞いてみよう」
エリンギが一斉に俺を見る。
「………………死んだら死ぬだけだ」
死にそうな人間に聞くな。
「これはどういうことですかな?」
「逆説的アレですな」
「何も考えてなくて、逆に賢そうに聞こえる、何も考えてない意見ですな」
やかましい。
「しかし、死とは何ぞ?」
「停止」
「停滞」
「調整」
「進化」
「進化とは良い響きですなぁ」
「進歩の方が良くない?」
「進歩の方が堅実な響きですな」
「ワレらの身の丈にあってますな」
『いいーな♪ いいなー♪ 進歩っていいなー♪』
エリンギたちは、歌いながら進みだした。
結構激しめに俺は引きずられる。全身痛いが、背中が特に痛い。捕らえられた獣の気持ちがわかる状態だ。
「ところのところで~♪ 進歩のために死ぬ?」
「ワレら自殺はできませんかと」
「特に死にたくもないですかと」
「生きたくもないけど、死にたくもないのだ」
「それは君だけですな」
「怠け者の意見ですな」
「ワレら全員怠け者では?」
「それはそうだね?」
「多様性良し」
「怠け者が甘えられる社会良し」
青空が遠くなってきた。
「………………おい、エリンギ」
「どうした人間?」
「俺、死にそう。オリンギか、キヌカのところに連れてけ」
もう手遅れかもしれん。
「お薬作ってみますか?」
「一服もってく?」
「作るの楽しい」
「作って遊ぼう人間と」
「たーのしー」
「デトックス、デトックス」
「マトリックス」
「つまりは改造ですな」
エリンギに改造されるのは嫌だなぁ、と俺は意識を手放した。
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