<第三章:グリード> 【03】


【03】


『連絡が遅い!』

 泣きそうなキヌカの声が通信機から響く。

「色々あった。でも片付いた。お前は?」

 連絡に出ている時点で、大丈夫だと思うが。

『遥か昔に片付けたわよ! お願いだから早くして!』

「わかったわかった」

 片付けたという割に、余裕は一切ない。それもそうか、相手が相手だ。

 襟に隠したクルトンを投げる。

「いいぞ、踏め」

 ボイドの小山の上に、キヌカが転移してきた。“例の椅子”と一緒に。

 理解するには、少し時間が必要だった。

 キヌカの両手には小さなナイフがある。そのナイフは、全てを赤く錆びさせる椅子の目に突き立てられていた。

 キヌカは錆びていない。ダメ元と言っていたが、彼女は見事にあの椅子を止めている。

 混乱したのは、ナイフと椅子の間にある現象だ。

 巨大な赤い蝶に見えた。

 巨大な赤い目にも見えた。

 大輪の赤い花弁にも見えた。

 六枚翼の赤い天使に見えた。

 見ようとすると認識がズレる。注視すると、次には別のものに変わる。まるで万華鏡だ。

 本質が捉えられない。人間の脳では認識できないものなのか?

「敵は!」

「キヌカ、お前の後ろだ」

「ウソでしょ!? 近いの!?」

「そうでもない」

 30メートルは余裕がある。

 翼の集団は、光る繭になっていた。半透明な膜の内側に、得体のしれない影が浮かび上がる。群から一個体に変わっている。

 施設全体が揺れ出した。

『緊急警報です。V-88-DC【偽翼】の観測データが、V-88-S3【曙光】と98パーセント一致しました。当ボイドを処理できない場合、このフォーセップは五分後に圧壊します』

「って、ことらしいぞ。キヌカ」

「あんたの落ち着き様は何よ!」

「信頼の現れ?」

 任せられる安心も一つ。

「はいはい! そーですか! アタシはいっぱいいっぱいなの! 敵は背後なの! 真後ろなの! 角度調整して!」

 キヌカの背後に回る。椅子の視界に入ったが、俺も錆びない。認識が歪んで俺がよく見れないように、この椅子も俺達が見えていないのか?

 だが、一回こいつに錆び付けられた身としては背筋が凍る。

「大丈夫なのか」

「大丈夫なんじゃない!? アタシのボイドで止めているから!」

「止めるボイドなのか」

「刃に接触したものを止めることができるの! 視線を止められるかは賭けだったけどね!」

 視線を止めるって、なんかおかしな表現だ。しかし、無効化しているのは事実。

 キヌカの腹に左手を回す。緊張の震えと、汗で湿ったシャツの感触。

 右手は椅子の背もたれに。木材に見えたが、感触は生物の肉そのもので生温かい。

 背後の繭と、こちらの距離を確認。

「キヌカ、振り回すぞ。合図で椅子を投げるからな」

「了解ッ」

 踏ん張り、キヌカと椅子を振り回す。

 景色が回る。

 キヌカの足が宙を浮く。

 三回目で………叫ぶ。

「今だ!」

 キヌカがナイフを椅子から離した。思いっ切り、俺は椅子をぶん投げる。

 着地の衝撃でバラバラになるのでは? と思うほど速く高く椅子は飛んだ。

 しかし杞憂だった。

 繭の前で、椅子は片足だけで着地する。椅子というより、椅子の形をした生き物の動き。クルクルと椅子は回り、回り、回り………………繭を見て止まる。

 繭の中身が絶叫した。

 断末魔と恐れの混ざった声。

 繭が赤く錆び付く。光が消える。だがしかし、錆び付いた繭を破り、細長い手が伸びる。水掻きのある手は、椅子を破壊しようと握り締め――――――破壊には至らず錆びて砕けた。

「………………終わったの?」

 化け物同士の戦いを見て、キヌカがため息を吐く。

 俺は呼吸を止めた。さて、最後の一押しだ。

「え、な?」

 キヌカを伏せさせ、走り出した。

 体が軽い。それでいて、踏み出す一歩は力強く沈む。爪先から脳天まで、全ての神経に意識が行く。何をどう動かせば最適か、最速か、限界か、手に取るように理解できた。

 強風が体に絡み付く。人とは思えない速度が出る。燕の滑空よりも速い。

 右手には折れた剣。意識せずとも得物は手の中にある。

 椅子が、振り向こうとする。

 ただそれよりも早く。圧倒的に早く。折れた剣を、椅子の目に突き刺すことができた。

 勢いが殺せず、俺の体は椅子と共に転がり、赤錆びた繭にぶつかる。

 椅子が暴れ出した。

 離されまいとしがみ付き、剣で傷を抉る。

 刃は軋み、赤い錆が浮かぶ。浸食? それとも捕食か? どっちがどっちを喰っているのか理解できない。

 長い時間、暴れる椅子に剣を突き刺し続けていた。

 感覚の中では長かった。

 実際の時間では、十数秒もない。

 刃の中程で、錆の侵攻は止まる。椅子は硬直して………………砕けて霧散した。

「ッ」

 左腕と頭に重い痛み。

 やはり、この椅子は別格な気がする。喰った感触が重く響いている。後で暴れ出したりしないか不安だ。

 周囲を警戒。

 流石にもう、動く敵はいない。いないと願いたい。

 小走りで近付くキヌカが叫ぶ。

「勝ったー!」

「勝ったぞ」

 彼女とハイタッチした。

 そのまま俺は、顔面から倒れた。

「ちょっ、どうしたの!?」

「疲労、燃料切れ、ダメージの蓄積。もしくは、ボイドと薬で無理やり体を動かしていたツケ。そのどれかか、全部」

 気を抜いたら体のあちこちから血が出てきた。一度塞がった傷が開いたようである。痛みがない。指一本動かない。とても眠い。

 こりゃ、死ぬかもな。

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