稲の向こう
にじさめ二八
稲の向こう
あいつのところへ行くなと、おっ父(とう)もおっ母(かあ)も口を揃えて言った。それに近頃は、村のみんなまでもがおらを白い目で見てくる。
本当に腹たつ連中ばかりだ。おらのやることが気にくわねえのなら、面と向かって文句の一つでも言やあいいのに。
どうせ無理な話さ。村の連中がおらに喧嘩の一つでもふっかけようものなら、すぐにおっ父に言いつけてやるんだから。そうすりゃそいつは村八分だ。
それにおっ父とおっ母だって、おらのことは目に入れても痛くねえって思ってる。だめだと言いながら、おらがちょっと頬を膨れさせりゃあ何も言えなくなっちまう。
誰もおらに逆らえないくせに。
お天道様がもうすぐで西の山の後ろに沈みそうだった。青々とした田んぼを横目で見やりながら、おらは足を早める。
今年は豊作だな。良い米がたくさん穫れるだろうし、村のみんながうちに納めに来たら蔵からちょっとばかり頂戴して、あいつにあげようか。
喜んでくれるかな。
いや、そんなことせずとも、今日おらが気持ちをきちんと伝えたら、いつでも米なんて食えるさ。
「あー、早く伝えたいなぁ」
空は徐々に、うっすらと薄い紅の色に染まってきて、いつの間にか影も長く伸びていた。
そうして辿り着いたのは、村の一番端っこにある田んぼだ。
「あれ、いないのか?」
所狭しとひしめき合う稲はあるが、人影はまるで無し。いつもならまだ仕事をしているのだが。
名前を呼んでみようかと息を吸ったところで、ちょうど田んぼの中から小さな顔が突き出てきた。
「いた、おーい!」
「ん? ああ、またろ…………じゃなかった。坊っちゃん」
「又郎でいい。坊っちゃんなんて呼ぶな」
おっ父に雇われてる奴はみんなそう呼んでくる。
「ちっさい頃はそう呼べたけどさ、今は親が坊っちゃんと言えって」
「早く上がれよ」
慌てて着物で泥を拭いたあと、おらが差し出した手を取ってくれて嬉しかった。それに、すっかり黒くなった肌が汗で光って綺麗だし、細い指がおらの掌に乗ると、それがどうにも心地良くていつまでも握っていたい。
「泥なんか気にするな」
「ありがとう」
か細い声がおらの耳をくすぐるみたいで、なんだか急に頬が熱くなってきて、額から大量に汗が吹き出してきた。
なんだ、お天道様はもう半分くらい隠れているし、さっきまではなんとも無かったじゃないか。それなのに、なんでいきなりこんなに暑くなるんだ。
なんて白々しい。この汗は違う理由で流れていると知っているくせに、自分を誤魔化そうとして自分に嘘をついている。
「又郎? なんか顔が赤いぞ?」
「ああ、きょ、今日はあれだ…………言おうと決めたことがあってな」
「ん?」
「そのぉ…………娶ってやってもいい。い、一緒にならないか?」
その言葉は、きっと喜んでもらえるものだと思っていた。
歳が同じで、生まれた時からよく一緒に遊んだ。稲作を教わるのも一緒だったし、蛙の取り方はおらが教えてやったんだっけか。
今は毎日会いにくることが少し難しくなっちまった。何故ならおらが、商売のことや領主様との付き合いなんかを勉強しなくちゃいけなくなったものだから、こうして田んぼに来ることが最近は減っちまった。
だけどこうした勉強をするのは、おらもおっ父のように偉くなる日が近いってことだ。
そしてお前を娶ってやれれば、お前は毎日良いもんが食えるし、きれいな着物だって着られるんだ。
どうだ、嬉しいだろう。
「又郎、ありがとう…………でもな、たぶんそれは無理だ」
「なんでだ? おらのこと、好きだろう?」
「…………うん、好きだよ」
「じゃあいいじゃないか。おら知ってるんだ。領主様は戦に勝つと、他所の地から気に入った奴を自分の側に置いているらしい。農民でも地主でも関係なく。身分は関係ないんだ!」
明るく言った。本当にそう思っていたからだ。
だが、おらの言葉は聞こえていないのか。はたまた聞かないようにしているのか。視線はずっと田んぼの方を、田んぼの向こうに聳える山を、そのまたずっと向こう側にある何かを見つめるみたいにして、お前は黙った。
「又郎」
「なんだ?」
「親に言われたんだ…………おかしいって」
気がつけば、肩が震えていた。
「又郎を、好いちゃいけねえって」
「…………気にするな。おらもおっ父に言われた。お前を好いちゃいけねえって」
「じゃあ」
「でも気にするな! おらは偉くなる! そんなもんどうとでもなる!」
おらがこんだけ言っているのに、なんでお前は泣いているんだろう。
そっと近づいて涙を拭ってやっても、お前はずっと田んぼの向こうを見ている。
「又郎…………男は、男を娶れねえんだって」
「大丈夫だ、おらが何とかしてやる」
大丈夫だ。お前が見つめるずっと先には、新たなが時代があるはずだ。
<了>
稲の向こう にじさめ二八 @nijisame_renga
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