114
転がったアンドロイドたちを横目に、晴香と二人でもと来た道を戻る。シャフトへ出て巨大な螺旋階段を上れば、迎えてくれるのはどこまでも広がる青空だ。といっても、地下空洞に描かれた偽物の空だが。
施設の風景にこの空を選んだのは誰なのだろう。どうしてこの景色を選び、どのような気持ちで空を仰いでいたのだろう。
蒼天を反射する地平。そこに口元や身体を血だらけにした自分たちの姿は映っていない。床を鏡面に見せていたのもただの立体映像だったようだ。鏡に映らないことは、この施設の目に自分たちが見えていないことを示している。
晴香が足元に落ちていた回転式の拳銃を拾う。円城が持っていたものだ。
その持ち主は変わらず、胸に鉄パイプを突き立てた状態で仰向けに寝転がっていた。晴香が銃を携えたまま、それに近寄る。
〈……やられたな〉
簡素な曲面で構成された一つ目の顔が言葉を発する。返答はするものの、微動だにしない。
「再び死ねる体になった気分はどう?」晴香が言う。
〈最悪だな〉円城の声は笑っているように聞こえた。〈命をもう一度与えられたようだ。こんなに不自由を感じることはない。ただ、君と同じ目線で話せるようになったのは嬉しいよ〉
「あんたと意見が合うのは癪だけど」彼女の声色は落ち着いている。「互いに一個の存在としてフェアな立場で話すことはあたしも望んでた」
彼はしばし沈黙した。ピンポン玉ほどの大きさのレンズに、青空と、流れる雲が反射している。
〈さて〉再度、円城が切り出した。〈私はもう、ただ無力に君たちの前で横たわっていることしかできない。君は私を殺して、この場所の存在を公にするつもりかい?〉
「もう一度会った時、どうするべきかは悩んだ」晴香が答える。「あんたが人間だったら司法のもとに突き出すのが筋だったと思う。でも、あんたはもう、法的には人間じゃない。刑の量定をする方法自体が、すでに存在しない」
微動だにしないただの人形と、それに語りかける同級生の姿が目の前にあった。その景色は、法の視点から見た現状と一致している。
「一方であたしの感覚は、あんたを未だに人間と見做してる。といっても、人間とそうでないものを選り分ける明確な基準を持っているわけじゃない。それらしい理由はいくらでも思いつくけど、結論ありきの恣意的な理屈を組み立てているだけで、多分意味はない。結局あたしは、あやふやだけど従わざるを得ない感覚を、ただ信じているだけ」
客観的な正しさを離れ、晴香の人生の文脈を以って、その視点で景色を見た時、ここに転がっているのはただの人形ではなく、生きた怨敵だ。
「あたしにも背負ってるものがある。個人として、正しさよりも優先するべきことがある。友達と約束したの。悲劇を運命づけられた魂が、これ以上生まれないようにすることを。自分に誓ったの。父の潔白を証明することを」
紡がれる言葉に宿っていたのは、覚悟だった──彼女が、彼女自身の物語を引き受けることの。
ひとたびその覚悟を決めたら、もう正しさばかりを選べない。現実は不完全で、矛盾したものだからだ。それは答えのない問いも、両立し得ないはずの正義も包含している。
理想を諦め、ちぐはぐな出来損ないの世界を受け入れて、時には罪を背負うことも厭わず、自身の物語を生きる──凪にはそれが、大人になることそのもののように思えた。
「魂を複製し、奴隷として扱う──このふざけた営みは、あんたが肉体を失い、人としての定義を外れた状態になっても止まらなかった。あんたの意志が存在し続ける限りこの地獄は終わらない。その制御系を警察に引き渡した場合、秘密裏に複製、保護される可能性を排除できない。それならここで確実に、あんたを消す」
彼女は彼女の殺意を以って、仇敵への復讐を果たそうとしている。自分の意志で、それが
〈もし〉円城がようやく言葉を返す。〈君の基準で人を認定したとして──つまりここで採集される魂も、血の通った脳に宿る魂も、同じく人のものであると認めたとして──ここで私を殺して魂の栽培をストップしたところで、世界の苦痛の総量は変化しない。この技術によって救われるはずの多くの人々が、搾取される日常に戻るだけだ〉
晴香は黙って話を聞いていた。円城は淀みなく話し続ける。
〈それだけではない。私はこの技術について、魂の源泉に関する情報が広く知れ渡ることの無いよう、注意深く運用している。この流通が突然ストップした場合、混乱は避けられない。もしこの動作原理が私による情報統制を離れ、その混乱によって拡散したら、法的な抜け穴の多いクローンAASCを用いて不特定多数の人間がこぞって
下唇を噛んだまま、固く結んだ口元。彼が言葉を重ねるごとに、晴香の横顔がどんどん曇っていく。銃を握りしめる手は小さく震えていた。
〈もう分かっているね。君の父親が裁判で多くを語らなかったのは、こうした混乱を防ぐためだ。裁判で全てを語り、禁忌を公にすることで混乱が生まれるなら、まだ分別のある友人にその運用を託したほうが世界のためになると判断したんだよ。
君の父親と、魂を頒布する際の取り決めをいくつか交わした。一つは、利用者側での複製を防止するための技術的な措置を講じること。そしてもう一つは、人としての記憶の一切を消去することだ。人格の同一性の取り扱い方ついて、彼なりに思うところがあったのだろう。邦彦は私がこの取り決めを守る限り、今後一切公の場で、妻の死の真相について語らないと約束してくれた。
私が死に、邦彦の潔白が証明され、C8NVMの動作原理が公になれば、人々は無制限にヒギンズの箱庭から魂を採集して利用するようになるだろう。邦彦との約束は当然守られない。君が今破壊しようとしているのはね、君の父親が最後まで守ろうとしたものなんだよ。それでも君は、私を殺し、真相を公にできるのか?〉
晴香の顔は憎しみで飽和していたが、その瞳の奥には戸惑いの色があった。迷いに追いつかれないよう、意図的に憎悪を募らせ、奮い立たせているような焦りを感じた。
こんな重みを、どうして彼女が背負っているんだろう──何かが、ひどく間違っているような気がした。
晴香が震える手で銃口を持ち上げ、円城の頭へ向ける。
「……情報統制は、あたしが引き継ぐ。この場所も止める。ヒギンズの電源もいつか落として、そのあとで父の潔白を必ず公にする。とにかくあんただけは、絶対に許さない……」
〈いいだろう、そうして君が最大限上手くやり、C8NVMの動作原理を隠し通すことができたとしてもだ……君の決断によって、本当は救われたはずの数え切れない人々を、また地獄へ突き落とすことになる。その重荷を、君は背負えるのか?〉
晴香は目を見開き、叫びだすのを堪えるように歯を食いしばっている。未来を選択する引き金に指をかけたまま、その先で見捨てられる命の重みに硬直している。二つの未来の狭間で押し潰されたまま、身動きが取れなくなっている。
──あたしが一番辛いのはね、自分の選択で誰かが傷つくことなの。
彼女が
今の彼女を、見る。
目を剥いたまま、声を出さずに絶叫しているような顔。日々手入れされていた髪は雑に短く切られ、小ぶりな後頭部から毛束をランダムに跳ねさせている。乾いた血が、ある場所ではろくに休めていないことが分かる荒れた肌をべっとりと汚し、またある場所では、色の禿げた爪の先を三日月型に黒ずませている。
こんな彼女の姿なんて、見たくない。
── 一度ぐらい、何も考えず、ただめちゃくちゃに甘やかされてみたかった。
本当に見たいのは、その願いを叶え、無邪気に喜ぶ彼女の姿だ。
現実を直視していられず、目を閉じようとした、その時、
凪は突然、自分に与えられた役割に気づいた。
なぜこの手のひらは取り返しがつかないほどに汚れているのか。なぜ人であることを諦めなければいけなかったのか。なぜ男に生まれたのか。なぜ自分は、こんなにも醜いかたちをしているのか。
どうして何もかもを飛び越えて自身を突き動かす感情がこの内に存在するのか。どうしてそれが怪物のかたちをしているのか。どうしてその気持ちを彼女に喚起させられるのか。どうして彼女と存在を重ね合わせることになったのか。どうして彼女と仇敵を同じくすることになったのか。どうして今、彼女の隣にいるのか。
その全ての、意味が分かった。
全部仕組まれていたようだった。ちぐはぐで出来損ないの世界にあって、今、この瞬間だけは、全てが完璧に見えた。
──今後何があろうと、君を僕の中で重要なものと位置づけることはないよ。
いつか彼女にかけた言葉を思い出し、少し笑ってしまう。
晴香はとっくに、自分の中で重要なものになっていたのに。
こんなところに居させてはいけない。こんな顔をさせてはいけない。今はただ休ませておかなければ。苦しみの届かない静かな聖域の中で、綺麗に飾っておかなければ。
腰に差した拳銃を引き抜く。
こんなことをしたって、遅かれ早かれ晴香は重荷を背負うことになる。同じような命の選別に、これから何度も直面するだろうから。それだけの力を、責任を、彼女は引き受けてしまった。でもその力は自分のものでもある。二人の存在を重ね合わせたことで生まれた力なのだから、その責任を引き受けるのも当然、彼女一人ではない。
これから、世界が許す少しの間だけ、晴香の願いを叶える。
そのために今は、選択と、罪を引き受ける。彼女の華奢で綺麗な指先に、その引き金は重すぎるはずだから。
晴香の震える手を下ろすように自身の左手を添える。彼女の腕は糸が切れたように脱力し、その手から拳銃が落ちてカラカラと音を立てた。
視線を感じ、見返す。彼女は何も考えられなくなったように呆然とした顔で、ぽかんとこちらを見ていた。
安心させるように笑いかけ、目の前に横たわるアンドロイドへ視線を落とす。
彼はこちらを見返すこともなく、何を語ることもなく、ただじっと空を仰いでいた。ずっしりとした銃身を持ち上げ、その頭に狙いを定める。
今壊そうとしているのは人形の頭ではない。一人の男と言っても、全く足りない。数千万人の人間の頭に、自分は銃口を突きつけている。
この重い引き金を引くことができるのは、この広い世界でも、きっと、僕だけだ。
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