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「……起きた?」
後頭部に温もりを伴う柔らかい感触があった。こちらを覗き込む晴香の顔が見える。どうやら自分は腿を枕にして仰向けに寝かされているようだ。
彼女の口元や頬、鼻の頭は乾いた血で汚れていた。拭ったような跡があるが、あまり拭き取れてはいない。
「綺麗な寝顔ね。起こすのためらっちゃった」
目が合う。その顔は無表情にも、微笑を浮かべているようにも見えた。瞳には怒りの色も悲しみの色もない。ただ落ち着いて、どこか悟ったようにこちらを見ている。
ギュッと心臓を掴まれるような、罪の実感。
「晴香、僕は君を……本当に、ご──」
さっと伸びてきた手に口を塞がれる。神性のような気配は煙のように散り、彼女はいつもと変わらない同級生の顔に戻った。なんだか慌てた表情だ。
「バッカ! 謝るとか絶対やめてよね!」口から手が外れる。「そりゃさっきはちょっと色々グチグチ言っちゃったけど……結局あんたはあたしを庇ったせいで死にかけたわけだし……こうなることも、あたしが選択したわけだし……」
彼女はこちらにもう一度しっかりと目を合わせ、笑顔を作った。
「何より、やむを得なかったとはいえ、自分の行為とその結果を後悔したくないの。いい選択をしたって思いたい。今この状態を、ちゃんと肯定したい」
そこまで話して、彼女がどこか別の方を向く。なぜかその仕草に不安を覚えた。
「好きな人を助けられた。世界を変えられるだけの力も手に入れた。いいことずくめだよ」
本心が見えない。こっちを見てほしいときに限って、そっぽを向いている。不安がどんどん大きくなっていく。
こういう気分に苛まれる時、彼女のことが、他人だとか、現実だとか、そういった恐怖の権化に見える。途端に全部捨てて、この場から逃げ出したくなってしまう。実際に一度、自分は彼女から逃げたのだ。
──どうして僕は、また晴香に会いにきたんだっけ?
「……それでも」晴香が言葉を続ける。「何らかの責任を感じてくれるんだったら、一つ、お願いさせてほしい」
贖罪の機会を与えられることへの期待と、罰が課されることへの恐れがあった。罰それ自体への恐れではない。その度合いによって、彼女の中に隠れていた自分への怒りの大きさが明らかになることが、たまらなく怖かった。
緊張する心を焦らすような、数秒の静寂。その後で、やっと彼女は目線をこちらへ戻して、ぽつんと言った。
「あたしと、生きて」
きらきらと濡れた瞳。その中には、少しの怒りも見つからなかった。声色は、少しの責任も課しているようではなかった。そこにいる彼女は神様ではなくただの同級生だったし、そのくすぐったそうな表情はまるで初めて恋愛感情を伝えてきたときのようだった。その全部が、自分の中で巨大化していた彼女のイメージとは違っている。晴香はいつかのように、俗っぽい感情を持て余すような照れを交えながら、それでも、
暖かさが胸から溢れる。視界があやふやに滲む。言葉を返したいのに、喉が感情で詰まって声が出ない。仕方なく、精一杯の頷きで答えた。
表情を取り繕うことができないと悟って、体を起こし、さりげなく顔を背ける。
くらくらする。ドア前の血溜まりから壁際のこの場所まで、血塗れの体を引きずったような汚れが伸びていた。全部自分の血なのだろうか。生きているのが奇跡みたいだ。実際、普通なら助からない状況だっただろう。隣にいたのが彼女でなければ。
「よっと」晴香は立ち上がり、背筋を伸ばした。「そろそろ出よっか」
「え?」
部屋の外は危険なはず──そう思った後で、入口への銃撃が止まっていることにやっと気づく。
混乱しているのを察したのか、晴香が、
「外はもう大丈夫。あんなヤツ、今のあたしには敵じゃないよ」
彼女は涼しい顔をしている。その余裕の意味が分からず、首をかしげた。
「もう一度、死ぬことができる身体をプレゼントしてあげたの。その左手の力を使ってね。散らばっていた円城の意識は、全て、一台の制御系に追い込んだ」
脅威は自分が寝ている間に無力化されていたらしい。あっけなさすぎる。自分があまりにも変な顔をしてしまったのか、晴香が笑いをこらえるように口元を手で隠した。
「やっとあいつと対等な立場で話せる。じゃ、行こっか」
晴香が扉の方を向き、歩きだす。
凪も体のふらつきに注意しながらゆっくりと立ち上がる。壁に手をついてもう一度彼女の方を確認したところで、入口がガコンと音を立てた。
スライドする金属製の扉。隙間からガラガラと何かがなだれ込んでくる。停止したアンドロイドたちだ。
外の照明は室内よりも明るい。逆光の中に、ぐったりと折り重なる人形たちと、晴香の背中があった。
扉は全開したが、彼女は立ち止まったままじっとしている。どうしたの? と声をかけようとしたところで、彼女が口を開いた。
「……ごめん」晴香は背を向けたまま言葉を続ける。「できるだけ見ないつもりだったけど、やっぱりあんたのこと、色々見えちゃった」
さっと、血の気が引く感じがした。
夢の中で彼女と会話ができたのは、マイクロマシンを介して互いの意識が繋がっていたためだろう。チカのときと同じだ。あの状態は、記憶の共有を可能にする。
色々、に何が言い含められているのか分からない。ただ後ろめたい何かだということは、その口ぶりから明らかだ。彼女は見たのだろうか、この内側にある、底なしの醜さを。
「……はは、嫌いになった?」
「ならないよ」
彼女は振り返らず、部屋を出ることもせず、その場に立ち尽くしていた。
動けない。できるのは、ただその背中を見つめることだけだ。
「凪」
凍った空気の中で身動きが取れない自分へ、彼女が短く呼びかけてくる。
「……何?」
喉がからからになっていた。手のひらが痺れているのは、貧血のせいだけではない。
彼女の中には怒りも嫌悪もないと、もう分かっている。それでも、一度裸の心を彼女に晒したと意識して、頭が諦めと焦燥の間をせわしなく動いた。とにかく、彼女の次の言葉が、気になって仕方がなかった。
──君は何を見たの? 僕は、何を許されたの?
彼女はこちらに後ろ姿を見せたまま、涙声を誤魔化すような、不自然に明るい調子で言った。
「母を送ってくれて、ありがとう」
どうやら見られたくないものは、全て見られていたようだ。
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