112
こくん、こくんと、彼女の喉が小さく音を立てる。滴る血を掬うように舌と口唇が動き、傷の周りをくすぐる。唇が吸い付くたび、ズキズキとした鈍い痛みが胸元に走った。といっても、もう痛みの感覚すら遠い。
入口の方から、金属に銃弾が打ち込まれるような衝撃音が響き続けている。アンドロイドたちが部屋の扉を破壊しようとしているのだろうか。晴香はそれを意に介さず、ひたすら傷口を貪り続ける。時折息継ぎをするように口を離し、そのたびに湿った温かい吐息が肌にかかった。
「……きた」
晴香がぽつりと呟く。直後、胸元に触れていた彼女の手がぐっと強張った。その喉から何かを堪えるような呻きが漏れる。
「痛い……」
彼女の手が縋るように胴へしがみつく。身体は震えていた。爪がこちらの肌に食い込むほど、指先に力が入っている。
胸元にかかる息がどんどん荒くなる。呻き声は激しさを増して、まるで動物の絶叫のように部屋を反響していた。
もうほとんど何も見えない。感覚できるのは、ドアへの銃撃音と泣き叫ぶような咆哮、そして激痛に痙攣する手の感触だけだ。
この血が彼女の身に作用して、想像を絶するほどの苦痛を与えていることは明らかだった。彼女が自分のためにそうしているのだということも。
この世界はいつもそうだ。一番大切にしたい、一番苦しみから遠ざけておきたいと思う相手に、一番の苦痛を与えることを強制する。その上、まるでそうした苦しみへの恐怖を麻痺させるためのように、専用の感情までもが用意されている。
──どうして僕たちは、こんなに悲しいかたちをしているんだろう?
そんな疑問が朦朧とした頭に浮かぶ。鼓膜を震わせる叫びは次第に遠ざかり、やがて世界が暗転した。
*
気づくと、辺りには光が溢れていた。
体の感覚がない。誰かの体温の中に浮かんでいるみたいだ。夢を見ている感じに近い。
言葉──それが、この世界の光となっているようだった。空間の明るさは一樣ではなく、暗い穴のような場所がいくつも点在している。自分という存在もその暗闇に属しているようだ。言葉の光が、その輪郭を浮かび上がらせている。
ネガポジ反転したような場所でぽつりと思う──僕は死んだのかな。
〈バーカ、死なせないわよ〉
相変わらず言葉は光として知覚され、意味はその影として像を結んでいる。それに纏わりつく、よく知った気配もまた、影の側にあった。
やっとこれまで自分を包んでいた暖かさの正体に気づく。その体温も、匂いも、優しさも、この世界に於いては全て暗闇に属しているようだ。
──この場所での君は、まるで光の中に空いた穴みたいだ。
〈今知覚してるのは計算機の上に構築された知識の世界だからね。言葉であたしたちの実体を直接記述することはできない。その代わり、記号的に記述された膨大な知識がその実体を穴として浮かび上がらせている。小説が、言葉を尽くすことで、言語化できないものを読者の中に浮かび上がらせるように〉
──あれ、小説は嫌いなんじゃなかったっけ?
〈……最近は、少し、読むようになったよ〉
彼女の影が、自身の影に、ゆっくりと近づいてくる。触れ合い、混ざり合ってしまいそうなほどに、接近する。
〈大切なものは、全て光の切れ間の中にある。あたしはそれが怖かった。でも、それでも手を伸ばそうとしたのは、凪、あんたに出会ったから。その心に、触れてみたいと思ったから〉
発光する組織で構成された左腕の像が目の前に現れる。
〈あんたを助けるためには、その左腕の力を借りる必要があった〉
腕の付け根から網目のような構造が伸びていく、それは植物が成長するように折り重なり、次第に一人分の血管標本を形成した。
〈でもそれを使えるのは凪だけ。あたしがそれを制御するには、この身体をあんたの一部にするしかない。血液とマイクロマシンを物理的に取り込んだのはそのため〉
それに覆いかぶさるようにして、もう一人、別の人物の血管が描かれていく。その口は他方の胸元に添えられていた。
〈あんたの血液中に含まれる細胞の情報を使って、あたしの生体情報の一部を書き換えた。その左腕に由来するマイクロマシンの一部も、今はあたしの意識の制御下にある状態で、この身体の中を流れてる〉
重なり合う、肌のない二つの体。境界の曖昧なそれらは、もともと一つの存在であったかのように、個別に存在していたときよりもずっと完全な印象を纏って、そこにあった。
二つの心臓──互いを引き合わせ、この形をつくりだした感情の源泉は今もどくどくと鼓動を打ち、命を巡らせている。時に自身を何よりも醜く振る舞わせたこの力の正体は、一個よりも互いが存続することを優先する価値基準に身を委ねさせるためのものだった。惜しみなく、今まさに目の前にある一対の構造そのものに、個を捧げさせるためのものだった。それは全体を維持するため、残酷なまでに個をないがしろにする。自分も、相手さえも。
自分一人の視点において、それが醜く映るのは当然のことだった。悲しく映るのは、あたりまえのことだった。
今では、それの備える美が、はっきりと捉えられる。
〈あんたも、その左腕の力も、今は全部あたしのもの〉
共に、二人の身体によって構成された像を見ていた晴香は、そう説明を結んだ。
少し前の彼女の言葉を思い出す。
〝あたしみたいに、ちゃんと使い方を知ってる誰かがそれを持ってたら、国を転覆させることだってできる。賢い人間が悪意を持って使えば、人の歴史を終わらせることすらできるかもしれない〟
──晴香は、何でも叶えられる存在になったの?
〈……全能とまではいかないけど、普通の人の感覚からすれば、あまりそれと変わらないかもね。結局あたしは、なんでも選べる存在になっちゃった〉
晴香と同じ形をした影は、諦めたように、少しだけ笑った。
〈さて、胸の穴は塞いだ。生命維持に支障がないだけの輸血も済んでる。そろそろこの夢も終わって、目が醒めるよ〉
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