エピローグ

#42 「エピローグ」

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 花を見て眩しいと感じたのは、初めてだった。


 近頃は曇りや雨ばかりで外気に肌寒さ感じる日が多かったが、今日は久々によく晴れた。肌を温める春の日差しが、賑やかに彩られはじめた花壇の色合いを一層鮮明に引き立たせている。垂れた枝を覆い尽くすように白い花をつけた植物が密生していた。純白の花弁が視界いっぱいに敷き詰められ、空と同じぐらい眩しく輝いている。時折そよぐ風が春の香りを運びつつ、その光を緩やかに波立たせていた。


 細かな花片の一つ一つが、その詳細までこの胸に届いて感動を湧き上がらせている。満開の花壇は確固とした現実感と暖かな懐かしさを伴って眼前にあり、鮮やかな光を意識の表面まで注いでいた。


愛美まなみ、お花だよ」


 抱っこひもの中の娘にそれを見せようと呼びかけた後で、彼女が寝息を立てていることに気づく。胸にしがみつくようにして眠る顔を覗き込んだ時、ミルクの甘い匂いがわっと香った。きめ細かやかな肌の質感といい、全身を包む香りといい、乳児はまるで匂いつきの石鹸みたいだ。


 ふと、あることに気づく──ずっと意識にかかっていた薄靄うすもやが、消えている。


「寝ちゃったか」後ろに立っていた妻が言う。「抱っこして歩いてるとすぐ眠っちゃうね」


「……ね、すぐ眠っちゃう」


「? どうしたの。変な顔して」


 今はもう遠い、幼馴染を手に掛けたあの夏の日から、醒めない夢のような日々は続いていた。世界はずっと虚ろなまま、現実感を失い、薄靄の中でただ淡々と継続していた。それは死ぬまで続く感覚であり、世界が再び鮮やかな色合いをもって目の前に立ち現れることは二度とないのだと、とっくに諦めていた。


 でも今日、娘と歩きながら景色を見ていたら、いつの間にか意識が起きていた。いつの間にか、薄靄が晴れていた。


 無意識に、この世界の綺麗な場所を探していた。身の回りの美に注意し、いつもなら気にもかけない細部まで、ゆっくりと質感を確かめながら丁寧に見ていた。時間の許す限り、できるだけ沢山の綺麗なものを娘に見せたかったからだ。おそらくそれが、心を覆っていた靄を取り除いた。


──信じられない。こんなことが、あっていいのかな。


「いや、なんでもないよ」

「えー? 絶対なんかあるでしょ」


──沢山の人に、ひどいことをした。もちろん君にも。こんな僕が、幸せを感じていいのかな。


「……ありがとう」

「えっ何? 本当にどうしたの?」

「……突然、そういう気持ちになったんだ。君にも、この子にも」


 本当は、ごめん、と言いかけた。でもそれは伝えられない。この後ろめたさが悟られてしまえば、きっと彼女は苦しむだろう。

 溢れそうな気持ちを抑えていた。この口が言葉を紡ぐたび、彼女の声が空気を震わせるたび、思いがけず裸になってしまった心の表面が揺さぶられる。


 自分が今どんな顔をしているのか、分からない。


「そっか、あたしもありがと」


 何かを察したのか、それとも会話に飽きたのか、彼女は会話を切り上げて花壇の向かいにある鉄柵へ近づいた。


 柵の向こうには見晴らしの良い景色が広がっている。この場所が高台の上にあるからだ。周辺は住宅街のため、近景にあるのは密集する背の低い建物や自然公園の緑だが、少し遠くに目を向ければ都心のビル群が立ち並んでいる。空と街の境を構成する建物はどれも大きいはずなのに、高く広がる青空や流れる雲のスケールの下では、まるでジオラマのように小さく見えた。


「懐かしいな。十年ぶりぐらい?」妻が景色を見ながら言う。「ここに来ると、空の大きさがよく分かる」


「街の中は空が狭いもんね」


 隣に移動する。その髪から、微かに花のような香りがした。


「あんたが初めてここに連れてきてくれたときのこと、今でも覚えてるよ。まだ高一の頃」


 それを聞いて、遠い昔に思いを馳せる。まだ出会ったばかりで、彼女の態度がやたらと冷たかったのを思い出す。

 不思議な日だった。あの日もちょうど今のように、二人でこの場所から景色を眺めていた。その時急に彼女がわっと泣き出して、理由を聞いても何も教えてくれず、その後ほとんど会話もせずに駅で別れた。何か怒らせたのかと思って不安だったが、話題にするのも億劫で結局その後触れることはなく、そのまま今日まですっかり忘れていた。


「今はもうなんともないんだけど」彼女がぽつぽつ語りだす。「あたし子供の頃、景色がちょっとグレーっぽいっていうか、ぼんやり色あせて見えてたんだよね。病院では心因性の色覚異常だって言われてたけど、詳しいことはよく分からなかった」


 初めて聞く話だ。もう長い付き合いになるのに、彼女については知らないことが、こうして未だにぽつぽつ出てくる。


「絵を描くのが好きだったんだけど、色を塗るのが怖かった。自分に見えている色と他人に見えている色が違う。他人がひと目でおかしいと分かる配色に、あたしは気づけない。それが怖かった。絵だけじゃなくて、例えば身につけるものとかも、色がついたやつは選べなかった」


 言われてみれば、出会った当時、彼女の私服は常にモノトーンだった。高校に入学して間もない頃はたまに眼鏡をかけている姿を見たが、それも黒縁だったような気がする。


「確かに、昔の君は白黒写真みたいな雰囲気だったね。なんか懐かしいな。すぐに私物がカラフルになっていったから、一時的なマイブームだったのかなって思ってたけど」


 彼女は景色を見ながら笑った。その後で、なぜか少し伏し目になる。

 頬と耳が赤くなっていることに気づき、思わずどきっとする。彼女は何を話そうとしているんだろう。


「本当はあの日、あんたに告白しようとしてたんだ。あの時、自分の気持ちをやっと認められたの。でも二人でここに立って、この景色を見た時、それどころじゃなくなっちゃった」


 彼女は視線をもう一度街に戻し、美しい思い出を振り返るように優しく目を細め、続けた。


「風景が、鮮やかに彩られて見えたの……それと一緒に心の中までわっとカラフルになって、いっぱいに溢れちゃって、とても何かできる感じじゃなくなっちゃった。あの日大泣きしちゃったのは、それが理由。つっけんどんな態度とってごめんね」


 語り終わった後も、彼女は目の前に広がる景色を眺め続けていた。色とりどりの屋根、彩りが少しずつ異なる木々の緑、大気の層に淡く着色された都心のビル街、緩やかにグラデーションする、空の青。


「……そっか。話してくれてありがと」


 彼女はあの時から恋愛感情を持っていたのか。自分はいつから、彼女にそうした気持ちを持っていたんだろう──少し考えて、出会ったその日からかもしれないな、と、今更認識する。


 なんだか、遠いところまで来たな──胸の中で眠る娘の体温を感じながら、ふとそんなことを思う。


「凪」


 上の空になっていたところで呼びかけられ、はっと意識が現実に戻る。


 振り向く。彼女は鮮やかな景色を背にして、ほのかに頬を赤らめ、少しだけ潤んだ瞳でじっとこちらを見つめている。俗っぽい感情を持て余すような照れを交えながら、それでも、生命いのちの華やかさのようなものをわっと咲かせて、いつもより一層綺麗な顔で、はにかんでいる。


「好きだよ」


 いつかのやり直しのように、彼女はぽつりとそう言った。


 出会った頃の彼女の姿が重なって見えた。また恋から始まってしまいそうなほどに、胸がときめいていた。


 あのときの自分は、きっと彼女に言葉を返せなかった。その意味を知らなかったからだ。人の醜さから生み出される美しさもあると、認められなかったからだ。だから彼女への気持ちも同じように、認めることができなかった。


 その気持ちを認めることは、世界の不完全さを認めることだった。幼き日に無邪気に思い描いた楽園を去り、大人になるということだった。


 けどその先にも、小さいけれど、ちゃんとかけがえのない場所を見つけることができた。そこは不安定で、矛盾だらけで、決して楽園と呼べるような所ではない。でも、命よりも大切だと思える場所だ。


 今はもう、彼女の気持ちに応えられる。それが言えるようになるまで、彼女のことをたくさん待たせたし、傷つけた。だからその分、彼女に求められるだけ、何度でも伝えたい。


 君のことが、──



     〈了〉

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