#35 「kaleidoscope」

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──結局また、ここに来るのか。


 凪は歓楽街を歩いていた。道はそこかしこにあるネオンの看板に照らされ、夜でも昼間のように明るい。行き交う人々は老いも若きも比較的華やかな衣装を纏っていて、しばしばすれ違いざまにアルコール臭い呼気を感じた。どこかギトギトとした生命力の波に半ば押し流されるようにして、夜の街を進む。


 飲食店の前で警官が何人か突っ立っている。人間かhIEかは分からない。どちらにせよ、今職質されたら終わりだ。


 ふと思う──もし腰に差した拳銃が見つかったとして、だから何だというのだろう? 今更自分は、そのとき何を失うのだろう? 彼らに連れられた先で洗いざらい本当のことを喋ったとして、現行法はどこまで自分を正しく罰してくれるのだろう? 


 ここへ来た理由は、自分でもよく分からなかった。多分何かが起きてほしいと期待して、幽霊のようにこんな場所を歩いている。もう自分では、この自分をどうすることもできないから。でも、それが何の意味も無いことだというのも、ちゃんと分かっている。


──このあたりだろうか。あの日、まだマナと呼ばれていたあの子が、迷子のようにぽつんと立っていたのは。


 凪は青色の看板の前で立ち止まった。通行人に肩をぶつけられ、流されるまま、壁際に移動する。


 店の前で、立ち尽くす。


 肌に纏わりつくじっとりとした夏の熱気は、彼女と再開した日に似ていた。


──これまでのことは、実は全部嘘だったんじゃないか? 本当は何も、壊れてなんかいなかったんじゃないか?


 僕はまだ、誰も殺していない。

 僕はまだ、恋を知らない。

 僕はまだ、他人と繋がりあえる。


 僕はまだ、人間だ。


 学校に行けば、いつもどおりの日常がある。星野がいて、晴香がいる。互いが抱えたものを隠したまま、探り合うこともせず、完全で心地良い、穏やかな時間を共に過ごす。


 そしてこれから目の前のドアが開いて、僕は本当にチカと再会する。あの日をやり直すために──


 ふと心を支配した、救いのようなイメージ。


 それに呼応するように、目の前の扉が、開いた。


「……チ……カ……?」


 淡いパープルのドレス。露出した白磁のような肩がネオンを反射する。彼女は呼びかけに応えるように、ゆっくりと顔をこちらへ向けた。アイボリーからピンクへグラデーションするボブヘアーがふわりと揺れる。その内側で、羽根を広げた蝶のような目が、瞼に眠たげな重さを持って、開かれていた。

 口角が、何もかもを見通したように少しだけ持ち上がる。まるで鏡像のように誰かとそっくりな、微笑。


 暗闇での会話が蘇る。



──私が……私だけが、君にとっての『チカ』なの?


 うん。その気持ちに嘘はないよ。


──わかった。私は私がチカだってちゃんと信じる。それを認める上で一番大事なのは、君が私をチカと認めてくれることだから。


 チカ。


──ああ、うれしいな……。私は栗原智鏡。君の幼馴染で、君の彼女。君は私をチカって呼ぶ……。



 気づけば彼女に背を向け、走っていた。

 邪魔な人波をかき分けて、溺れるように通りを抜けた。

 歓楽街の光が夜を切り取ってつくりだした人工の昼間。どこまで走っても、似たような景色の連続から抜け出せない。彼女に似た誰かが、路地の影から、店の中から、看板の裏から、また現れるような気がした。

 胃の中には何も入っていないはずなのに、なおも何かがこみ上げ、溢れようとする。通りがかった橋の中程でとうとう我慢できなくなり、欄干から身を乗り出した。

 吐く。案の定、胃液しか出てこない。呼吸をするたび、下の川から立ち上る生物的な臭気が口の中へ入ってくる。


 全身が重い。もう、汚れた口を拭う気力すら出ない。


 昨日あの図書館に捨ててきたものは、背負った過去だけではない。未来も一緒にあそこへ置いてきた。だから何もしなくても、もうすぐ救いは訪れる。


 でももう苦しすぎて、それを待つことすらできない。


 眼下を流れる川は、暗すぎて深さも分からない。ただその黒い表面に落ちた光が、ゆらゆらと波に弄ばれている。この静かで穏やかな流れは、どこへ向かうのだろう。


 夜の水面へ、吸い込まれる──



「凪!」


 突然背後へ引っ張られた。襟首を誰かが掴んでいる。柵から乗り出した体が、ぐっと歩道へ引き戻された。

 ふらついた足になんとか力を入れて自立し、振り返る。


「……ほし……の?」


 親友はこちらの襟を掴んだまま、少し走った後のように肩を上下させていた。

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