#34 「じゃあね」

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 左手首の携帯端末にメッセージを吹き込んだ後で、晴香はもう一度室内に目を向けた。


 薄暗いガレージ。目の前に女子大生風の身なりをした女性が一人、仰向けに寝転がっている。入り口の壁にもう一人、中年の男がもたれかかり、停止している。


 一時間ほど前、彼らに無理やり車に詰められ、ここへ連れてこられた。


 二人の制御系はC8NVM準拠のものだが、通信によって何者かのコントロールを受けているようだった。街にはしばしば、彼らのような存在が一般人に紛れて歩いている。

 わざわざここに移動したということは、おそらくこの場所が、公共のあらゆるセンサーの盲点になるからだろう。目的は言わずもがなだ。


──あたしが無策であんたらの前に姿を見せると思った?


 まだ自分を見ているかもしれない誰かに、心のなかで呟く。

 これまでは監視から逃げまわることしかできなかった。でも今は、攻勢に出るだけの力がある。



 それはマナによって、晴香の手元に届けられた。


 彼女の頭蓋内部に根を張っていた粘菌状の組織は、血中マイクロマシン──封印指定されているはずの人類未踏産物だった。

 これは本来、人間に投与して身体改造のなどの微細手術を行うためのものだ。外科的な手術に頼ることなく、体内で埋め込み機器を自動組み立てしたり、ミクロな組織構造に手を加えたりすることができる。まさに夢のような技術だ。

 人の手でも扱うことができるインターフェースが存在し、その挙動をプログラミング可能だということに気づいたときは心が踊った。筋力の増強や骨格の強化、治癒能力向上など、有用な機能がもともと備わっているようだったので、それに後付けする形でさらにいくつか機能を追加した。誤って意図しない人物の手に渡ったときの対策のためか、時限式で周辺組織を巻き込んで自壊する処理が組み込まれていたので、それも無効化した。


 これを静脈から血中へ入れたのは、昨日の深夜だ。


 人を超えた領域の技術と自分が混ざり合うことへの憧れ──それが高揚感を齎し、異物を注射することへの恐怖を麻痺させていた。マイクロマシンが血管に穿孔し、全身へ拡散していく激痛にすら恍惚を覚えた。

 結果として、今はサイボーグに許された法規定出力を超えて力が出せる。もともとあった副脳接続用インターフェースを通じて思考力も大幅に拡張できた。もう自宅にある重箱のような副脳に接続しなくても、今この瞬間も体内で培養され続けているマイクロマシン群を、好きなだけ思考の計算リソースに充てることができる。


 血中を泳ぐマシンに、頭の中で組んだプログラムをリアルタイムで反映することすら可能だ。


 倒れた女性の耳元に人差し指で触れる。耳孔から液体が溢れ、指先を伝い、晴香の手首についた傷へ流れ込んでいく。制御系の解析のため、車での移動中に彼女へ忍び込ませていたマイクロマシンだ。


 もともとBrain-machine Interfaceを通じて脳から計算機へ直にプログラムを送り込むことは可能だったが、ここまで柔軟な駆動系を持ったマシンの挙動を、自らの思考によって制御する経験は初めてだ。心に浮かんだものがそのまま形式的な処理の流れに変換され、現実世界へダイレクトに作用する感覚は、まさに自己の拡張と言える。


 マイクロマシンによって齎された恩恵はまだある。一年前に理沙から受け継いだ暗号通信の解読技術の強化だ。これまで通信の傍受や改竄には、通信の物理的な中継と、膨大な計算資源の準備が必要だったが、後者については体内のマイクロマシンで並列計算すれば十分賄えるようになった。


 いつか理沙にかけられた言葉を思い出す。


──この世界中を飛び交うあらゆる情報を、世界でただ一人、ある女子高生だけが自由にできる。いい感じにぶっ壊れてて最高だと思わない? 小さなかわいい神様。


「……ほんとに、突然、神様にでもなっちゃった気分」


 ふと、手先が胸元で空を掴み、邪魔だった長い髪を切ってしまったことを思い出す。髪を触る癖があったことは散髪の後に知った。自分で雑にビシバシはさみを入れてしまったから、後ろ髪がワイルドに跳ねまくっている。


「うっ……んぅ……」


 目の前に寝そべっていた女性が呻いた。目が薄く開かれる。口の端から赤いあぶくが溢れて横へ零れた。


「気づいた?」


 声をかけると、女性は一度目線だけをこちらに向けて、もう一度天井へ視線を戻した。表情は虚ろなままだ。

 今の彼女に必要なのは、状況の説明だろう。


「あんたを支配してたプログラムは無効化した。もう誰も、あんたの感覚したものを監視したり、体を勝手に動かしたりしない。苦痛や快楽をコントロールして服従させ、命令に従うよう強制することもない」


 女性の口元が悔しそうに引き結ばれ、わなわなと震える。天井を見つめたままの目の端から涙が溢れ、一筋の光となって頬を伝う。


「悪いけど」晴香は言葉を続ける。「見ず知らずのあんたの面倒をこれ以上見るのは無理。安全な場所を教えるから、奥の男と一緒になんとか逃げて。あと、顔殴っちゃったのはごめんね」


 頬の腫れた顔が華奢な手で覆われる。なんだか哀れっぽすぎて、耐えきれずに目を逸らす。


 彼女の制御系にはいくつか特殊な処理が施されていた。そのうちの一つに、外部通信による命令に従わせるような報酬系の細工があった。精神を内側から操作され、自己を好き勝手に使用される──そんな日々に、彼女らは今日まで耐えてきたのだ。


 車での移動中は隙だらけだったから、そうした制御用の通信をいくらでも解析できた。その内容と、辿れる限りの通信経路から、運良く送信元となっていそうな施設を割り出すことに成功した。


 命令の発信源は、東京湾内にある小さな人工島だ。


 この島にあるhIEは、通常の行動管理に使われているクラウドとは別の、クローンAASCと呼ばれる制御系統によって管理されている。表向きには、hIE行動管理へ組み込み予定の更新内容を試験する場として使われているようだ。行動管理クラウド本体のデータにはクローンAASCからもその大部分にアクセスできる。ヒギンズの箱庭から〝魂〟を収穫するには、この上なく最適の場所だ。


 絶対に、何かがある。


 今夜にでもそこに乗り込む。もしかすると、明日の朝にはこの体が東京湾の底に沈んでいるかもしれない。さっき凪に連絡したのはそれを思ってのことだ。結局、繋がらなかったが。


──最後にもう一度だけ、あの薬物じみたときめきに酔いたかった。



 ガレージを出る。雲の切れ間から覗く久々の青空が視界を眩しくした。溢れる夏の光で少しだけあやふやになった景色の中を、小さな影が音のしない翼で泳ぎ、肩に留まった。外を監視させていたフクロウ型の無人機だ。


 頬にすり寄る小さな頭の感触を感じながら、思う──この青空を仰ぐのも、今日で最後かもしれない。


 でも同時に、今の自分を止められる力なんて、この世界のどこにも存在しないような気がした。

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