95

 彼女が腕で掛け布団を少しだけ持ち上げる。その隙間に転がり込み、背を向けて横たわる。


 体温が、匂いが、全身を柔らかく包み込んだ。


「たまになら、こうして息継ぎに来てもいいよ」


 暗闇を伝って届いた、取り立てて何の感情も乗っていない普段通りの彼女の声が、思いがけず、温もりを伴って胸に沁みた。


「優しいね」


 溢れそうな気分を抑えながら、なんとか返事をする。これ以上話さないでほしい。今その声で、鼓膜を揺らさないでほしい。


「あたしも苦しかったから」


 後ろから伸びてきた彼女の手に引き寄せられ、そのまま背中を抱きしめられる。触れ合った箇所から、体温がじんわりと染み込んできた。


「ごめん、今はちょっと、無理」目元が熱くなる。もう、途切れ途切れに発話するのがやっとだ。

「本気になっちゃう?」彼女が耳元で囁く。「いいよ、それでも」


 嗚咽が漏れるのを、とうとう我慢できなかった。

 抱かれたまま、無様な声を出して枕を濡らす。



 落ち着くまでの長い、長い間、彼女は何も話さなかった。


 ひとしきり泣いた後、エアコンの音だけが響く室内で、彼女がぽつりと語りだす。


「毎日これぐらいの時間、一人で天井を見ながら思うの。消えたいって。仕事も恋人も友達も家族も、過去の全部をなかったことにしちゃいたいって」


 手の甲に、彼女の手のひらが重なる。


「これから二人で、全部放り投げてどこかに逃げちゃおうよ。温泉地を遊び歩いてもいいし、いっそ外国に行ってもいい。背負ったもの全部投げ出して、頭を空っぽにして、ただ楽しいことだけして過ごすの」


 指の隙間に、彼女の指が絡まる。


「それでどうにもならなくなったら、どこか綺麗な場所で、一緒に死のう」


 そう言われて、ようやく気づく。自分は、死んでも構わないぐらいのどうでもいい相手に、丁度こんな言葉をかけられたかった。受動的に、流れのまま、他人の体温を感じつつ、しかもその人の抱えた物語の重みを意識せずに、ふっとさりげなく消えてしまいたかったのだ。


 全身を包む暖かさの中で、涙が流れきって空っぽの頭に、ただ透明な感謝があった。でも──


「……ありがとう。でも、ごめん。本当に、ごめん……」


 もう誘いに応じられるほど、彼女を軽く扱えなくなってしまった。


     *


 先生が設定したアラームの音で目が覚める。束の間の幸せな夢を見せてくれた彼女も、起きた時には、すでに現実を構成する一部分になっていた。会話が発生するのが辛くて、その顔を見ることもせず布団を被る。そうして寝ぼけた頭で、シャワーが流れる音や慌ただしい朝の生活音を聞いてるうちに、またそのまま寝てしまった。


 もう一度起きたとき、先生は部屋にいなかった。

 体が重くてうまく動かない。限界のようだ。


 疲れた。


 少しも体を動かせないまま、一時間ぐらい、ベッドの中で何もせずただ呼吸をしていた。

 ようやく寝返りをうつ。ローテーブルの上に、ラップがかけられたやきそばが見えた。なぜか吐き気がこみ上げて、目を瞑る。

 起き上がれないまま時間だけが過ぎる。今が何時だかよく分からない。自分の携帯は部屋の隅で充電中のはずだが、それを取りに行く気力が出ない。


 空調で一定の温度に保たれた室内。遠くから誰かの会話や、車の走行音が微かに聞こえる。窓を隔てた向こうでは今日も変わらず、現実の時間が流れているのだ。


 ふと、聞き覚えのある着信音が部屋に響いた。


 晴香だ。



 1コール


 2コール


 3コール


 4コール


 5コール


 6コール


 7コール


 8コール


 ……


 ようやく音が切れる。


 心臓が速く鼓動を打っていた。捉えどころのない焦りや不安から逃げたくて寝返りをうつ。目の前の、白い壁に伸びている何かの影が、先程と濃さや形を変えていた。太陽が動いている。

 日が落ちる頃には、また先生がこの場所に帰ってくる──それを意識して、急に恐怖が襲ってきた。彼女はもう自分にとって、心を引っ掻き回す恐れのない、取るに足らない存在ではなくなりつつあった。


 早く部屋を出ないと──焦燥感に追い立てられ、凪はようやく体を起こした。

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