#36 「プライド」
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星野の手を払いつつ、崩れそうな足に力を入れてなんとか自立する。目が合わせられない。視線が自然と地面へ落ちた。
チカに似た誰かと出会ったことによる動揺は、吐いたことで大分落ち着いていた。やっとの思いでようやく心が凪いだから、このまま終われたらと思っていた。それなのに、よりにもよって──
「……お前にだけは会いたくなかった」
「はぁ!?」星野が目を見開く。「俺なんかしたかよ」
「別に」
先生と過ごした夜の後で、自分はもう人と繋がりあえないのだと完璧に分かってしまった。誰も孤独を埋めてくれないことに、はっきりと気づいてしまった。もう他人という存在に期待できることなんて、何もない。
それでも、一度重要なものと位置づけてしまった存在は、暴力的にこの心を期待させる。凪いだ水面を、波立たせる。誰もがこの気持ちを、いつか絶対に裏切るのに。
もう、疲弊するのは嫌だった。とにかく心を穏やかに保ちたかった。大切だと認めてしまった他人と、距離を置きたかった。
「星野と話すのは疲れるんだよ」
「は? 何?」星野は半笑いになり、少し声を落とした。「もしかして喧嘩売られてる?」
「……違う」
本当は怠くて一言も喋りたくない。でも流石に今の気分について説明しないのは、気遣ってくれる彼に対して失礼であるような気がした。
「星野のことが大切なんだ……多分、この世界の誰よりも。そういう人にほど、会うのが怖いと思うときがあるんだよ」
「え? 意味わからん」
星野があまりにも普段と変わらない調子で話すので、思わず耳を疑った。真剣なトーンで話してるのに、全然そうしたニュアンスを汲み取る様子がない。
「ラーメン行こうぜ。腹減っちゃった」
自由すぎる。わざとやってるのか?
「無理。今飯食える感じじゃない」
嘘偽りない本心からの返答のはずなのに、どこか意地を張ってそう言っているように、自分にも聞こえた。彼の態度はあっけらかんとしすぎていて、今の自身の気分がよく分からなくなってくる。
「んあー」星野は頭を掻きながら眉間に皺をよせた。「何めんどくせえことになってんだよ〜」
「……ほっとけよ」
「橋からダイブしようとしてる奴をほっとけるわけねえだろ。なんでもいいから、行くぞ」
星野に手首を捕まれる。引っ張られるまま、抵抗する気力も出ずに足を動かす。
「それより、今までどこにいたんだよ。お前も晴香も、二人して突然消えやがって。一緒じゃねえの?」
「……」
「ま、落ち着いてからでいいか」
まるで万華鏡の中にいるような、無限に繰り返される夜の光。そこから彼はいとも簡単に、この体を連れ出した。
*
頑なにラーメン屋へ入ろうとする星野を散々説得した。あんなに脂っこいものが食べられる状態ではない。結局星野が折れてコンビニに入り、そこで買った各々の夕食を持って座れそうな場所を探した。歩を進めるごとに他愛もない話題が尽きて、段々と無言の時間が増えていく。
そうしているうちに、小さな公園を見つけた。
星野と二人でベンチに腰掛け、少し辺りを見回す。誰もいない。塗装の剥げかけた遊具の表面を電灯が照らしている。
買ったお茶を一口だけ含み、顔を伏す。隣で星野が袋をごそごそやっている。ピリッと包装が切れるような音のあとで、夏の夜風に混ざって海藻のような香りが漂ってきた。多分おにぎりだ。
会話が無いまま、彼がたてる音をしばらく聞いていた。おにぎりを食べているから無言なのか、無言であることの言い訳のためにおにぎりを食べているのか、もうよく分からない。
手元にある飲み物のキャップをいじりながら窮屈さをやりすごしていると、ようやく星野が口を開いた。
「マナと関わるようになってから、お前ら無茶ばっかしてたからな。正直めちゃくちゃ心配してた」
「悪かったと思ってるよ」
嘘じゃない。でも彼に連絡なんて取れるはずがなかった。もともと、星野だけは最近のゴタゴタに巻き込みたくなかったのだ。
「……お前がいなくなって」妙な間の後で、星野が続ける。「ちゃんと話さなかったのを後悔してたことがあったんだ。ちょっと避けたい話題だったから」
「何?」
さらに、少しの沈黙。意識が向いた耳へ、少し離れた場所を走る車の音や、風で擦れ合う木の葉の音が感覚される。
あまりに勿体ぶるのでなんだか居心地が悪くなって、飲み物のキャップを再び開ける。それを口元に運ぼうとしたところで、星野が言った。
「マナと、三年前の事故、無関係じゃないんだろ?」
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