#23 「鏡」

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 チカを木の根元に座らせ、手のひらでそっと撫でるように瞼を閉じさせた。ちぐはぐにずれた左右の視線を見ていられなかったからだ。

 穏やかな顔。まるで眠っているような。その口元に湛えられた微笑からは、体温すら感じられる。

 両目を瞑った彼女。それでもなお視線を感じるのは、その額にあいた穴のせいだ。


 吸い込まれそうなほどに暗い空洞がじっとこちらを見つめている。


 この止まった時間の中にあるような深い黒の煌めきを、前にもどこかで見たことがあるような気がした。まだ自分が自分になる前に経験したことのような、記憶と呼べるほど完全ではない静的な感覚が呼び起こされる。

 自分はこの世界に、この穴を通ってやってきた──そんな気さえする。案外この世界に生まれることのイメージというのは、死のイメージと隣り合っているのかもしれない。


 現世と常世の境目を繋ぐこの穴を開いた時、ふたりで見つめ合った永遠のような時間の中で、彼女と溶け合った。


──凪くんの質問に答えないとね。私が君に向ける『好き』が、一体どんな意味なのか。


 直接心に流れ込む想いが、彼女と同じ風景をこの目に見せた。


──私の頭と君の頭がくっついて心が一つになったりでもしない限り、どんなに言葉を重ねても伝えられない。


 そうしてようやく知る──彼女はあの息の詰まるような美しい表情の裏で、こんなにも残酷な景色を見ていたのか。

 自分は彼女の一番近くで、彼女と同じ痛みを感じていると思っていた。でも、それもただの思い上がりだったようだ。

 彼女はこの世界に押し潰され、絶叫するような気持ちを好きという言葉に込めていた。自分はその痛みを彼女と分かち合い共感していたが、同時に自分も、彼女を押し潰す世界の側にいた。


──実は私、恋人同士が一般的にどういう気持ちで『好き』って言葉を交わし合ってるのか、確実に君に伝える方法を知ってる。でもそれをするのは私にとってはすごく悔しいことだし、君もきっと怒ると思う。


 いつのまにか、チカを何よりも傷つける感情が自分の中に存在していた。そのことも彼女の目にはすっかりお見通しだった。それは自分に属するものだが、自分の制御下にあるものではない。自分はこの気持ちを消すことができない。それがどれだけ残酷なことだったとしても。


 視線はチカの額の穴に固定されたまま、罪悪感の迷路を、ぐるぐるぐるぐる、もうずっと歩き回っている。

 結局また、彼女を救えなかった──出口を求めて彷徨いながら、何度も何度も繰り返し、その事実に突き当たる。


 愛する者に二度の死を経験させた。この世界に奪われる様をもう一度見るのが嫌だったから、二度目はこの手で彼女から奪った。

 撃った。彼女から託された拳銃で。そうやって自分はチカに生かされた。だから、自身の頭を撃ち抜いて全てを終わらせることも許されない。


 死ねない。生きなければいけない。でも、これからどう生きたらいい?


 これまでの物語を振り返る。


 チカと共に生き、一度は失い、再会し、最後は彼女に生かされた。自分の物語は常に彼女と共にあった。


 これからの物語を想像する。


 チカと紡いできた物語の続きを生きる。彼女に誓った約束を果たし、彼女の目的を遂げる──それ以外の自分の姿は、想像できない。


 結局、今の自分に可能な『生きる』とは、そういったことでしかなさそうだ。



 しばらくじっとチカの額にあいた暗闇を見つめていると、どこからか車の走行音が聞こえてきた。

 眺めの良い庭園の縁に立ち、音のする方向を確認する。暗闇に沈みゆく景色の中で、ぽつりと車のヘッドライトが動いている。鑑の車だ。


 丁度、彼に会いに行かなければいけないと思っていた。チカとの約束を守るために。とはいえ相手はあの鑑だ。今彼と対面したとして勝ち目はあるだろうか。


 ここで彼を待ち受けるメリットを考える。こちらのほうが彼の姿を先に捉えたことは有利に働くだろう。チカが撃ち込んだ銃弾のダメージもまだ残っているはずだ。


 しかし──凪は自身の頬に手を添えた。火傷の痕はすっかり癒えて、なくなっている。


 どうやらこの体に拡散したマイクロマシンには生体の治癒能力を向上させる能力があるらしい。おそらく鑑の体にも同じものが投与されているだろう。どの程度の傷まで治癒可能なのか不明なため、鑑の体がどこまで回復しているのか予想できない。

 ただ、こうも考えられる──相手の回復力が人間以上だというのなら、なおさら早いうちに決着をつけたほうがいい。


 鑑と対面する覚悟を決め、不意打ちを食らわせる方法に思いを巡らせながら辺りを見回す。


 ふと、一つの考えが脳裏に浮かんだ。

 鑑はこちらに向かってきている。ならば、今の古民家の状態は──

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