70
──千鶴
凪はぞっとしてその肩を突き飛ばした。夕日に照らされたアスファルトに少女の体が転がる。
彼女は打った箇所を庇うように抑えながらゆっくり上体を起こすと、はっとした目でこちらを見た。
「……っ! ごめん凪くん! これは違うの! 私じゃない!」
今度は『チカ』の顔だ。
直後、彼女は地面に手をついたままぎゅっと目を瞑り、食いしばるように顔を伏せた。小さな背中がガタガタと震えている。内側で何かが暴れているかのようだ。
チカの様子に狼狽えていると、突然頭にズキッと鈍い痛みが走った。
ズキン、ズキン──心臓の鼓動に合わせて痛みが大きさを増しながら頭蓋に響く。それがぞわぞわするような感覚を伴って首を伝い、体の内側を這うようにして全身へ広がっていく。
立っていられない──凪は柵に寄りかかった。どうにか痛みから逃れようとして無意識に呼吸が荒くなる。
激痛のショックで視界が赤黒くぼやけていく。ブラックアウト寸前だ。
「凪くん! 私を撃って!」
強い耳鳴りの向こうからチカの叫びが届く。
なんとか声の方へ視線を向けるも、見えるのは真っ赤な世界の中で揺れるチカの陰だけだ。
「……何言ってるんだよ。無理に決まってるだろ!」
「千鶴ちゃんの……あの人たちの狙いが分かった。私の中で培養されたマイクロマシンが凪くんの体を組み替えてる……千鶴ちゃんは私の制御系を経由して、君の体を奪おうとしてるの」
マイクロマシン──体中に広がっていく痛みの原因はそれか。
「でも、まだ君に疎通できるのは私だけ。凪くんがあの人たちと繋がる前に私の頭が破壊されれば、あの人たちの手はもう君に届かない。だから……撃って」
チカは何も分かっていない。ここで彼女を殺すことは、あの日の追体験だ。
「君を撃つぐらいならこのまま自分の頭を撃ったほうがマシだ!」
チカとやりとりをしている間にもおぞましい痛みが全身へ広がっていき、末端に行き渡る。
限界だ──意識が飛ぶのを覚悟したところで、突然体中に冷たいものが流れる感覚が走った。
痛みが急速に引いていく。自分の体が消えていくようだ。痛覚が無くなるのはこんなにもぞっとするものなのか。
遅れて視界に細部の情報や色が戻っていく。チカは目の前で地べたに崩れたまま動かず、強い意志の宿った視線をこちらに向けていた。
「……お願い」チカが震える声で言う。「もう無理なの。自分で分かる……もうすぐこの体を押さえつけていられなくなる」
表情が見えるようになってきたことで、チカの気持ちがより鮮明に伝わってくる。彼女が『撃て』と言っている理由は、単にこちらの身を案じているためだけではない。
「……凪くんも、私の中にある凪くんとの思い出も、全部私のもの。これを独り占めできなくなるぐらいなら、このまま君との思い出と一緒に死にたい……」
チカの声が、表情が、目の前にある現実が決断を急かす。
心臓はバクバクと破裂しそうなほどに鼓動を打っているのに、首から上はさっと血の気が引いたように冷たい。
緊張で痺れ、ぶるぶると震える右手の中で、汗に濡れた銃のグリップが滑り落ちそうになる。
──今何もしない場合、僕たちは何を失うのだろう。
こんな状況になってようやく意識する。それはチカと自分が、ふたりで、今日まで命を懸けて守ろうとしてきたものだ。
思い出す。
まだ幼かった頃、ふたりで歩いたウエディングアイル。
いつもと違う衣装を着たチカはいつもより大人っぽくて、隣を歩くのが少し恥ずかしかった。
あんなに小さかった頃から、今日この日まで、ずっと積み重ねてきたふたりの時間。それが生み出す、ふたりの間だけにしかない、他の何にも代えられない気持ち。
「凪くん、私の目を見て」
顔を上げる。
なんでもお見通しの目。隠し事が苦手な目。彼女と交わし合う視線がつくりだすふたりだけの世界は昔からずっと、どんなものよりも透明だった。
「私たちの間にある『この気持ち』を誰かに奪われるなんて、絶対に嫌」
永遠を詰め込んだような、刹那──
右手に握りしめた拳銃は、これまでに持ち上げたどんなものよりも重かった。
「……ありがとう、凪くん。最後まで本当にごめん」
滲む涙でまともにチカの顔が見えない。眉間にあてた銃身から、彼女の感触が手のひらに伝わる。
もう時間は残されていない。それでも、凪はすぐに引き金を引くことができなかった。チカも少しの間それを許すように沈黙していたが、突然クスクスと笑い出した。
「どうしたの?」
「千鶴ちゃんがいなくなった。私たちが『こうする』のは想定外だったみたい。頭を吹き飛ばされるのはやっぱり怖いんだね」
チカは穏やかな笑顔を浮かべ、思い出にひたるように目を閉じた。
「本当にひどい人生だった」彼女の口調はゆったりと落ち着いている。「このままじゃ悔しいから、最後だけはいい気持ちで死にたい。だからひとつだけ、お願いしてもいい?」
「何?」
「怪物である君に、食べられてみたい」
彼女の頼み事は、最後まで一貫して残酷だ──凪は少し笑ってしまった。
空を仰ぐ。溢れた涙が茜色の夕焼けを滲ませ、だらだらと顔を伝っていく。
深呼吸し、もう一度じっと彼女の目を見つめる。
チカは震える口元をぎゅっと引き結び、真っ直ぐな目で、瞬きをせずにこちらを見ている。
もう彼女に隠すことは何もない。
──僕はチカを見ている。チカは僕を見ている。
互いの心の境目がなくなるほどに、見つめ合う。
「引き金を引く最後の瞬間まで、私から目を逸らさないで」
全てを奪う気持ちが、彼女に伝わる。
全てを奪われる気持ちが、流れ込んでくる。
沈みかけの夕日にチカの顔が照らされている。彼女の瞳は夕暮れ色の空と、怪物の影を反射している。
この瞳だけが、自分の本当の姿を映し、許してくれた。
引き金を引いた後に傷だらけのお互いを笑い合うことは、もうできない。
ふたりだけのネバーランドに足を踏み入れることも、もうできない。
景色が夜に落ちていく。また、醒めない夢が始まる。
「……やっぱり、凪くんはかっこいいね……」
彼女は体を小さく震わせていたが、それでも最後に、息の詰まるような眩しい笑顔を咲かせた。
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