72

 一つの考えが浮かび、凪は鑑と対峙することをやめて古民家の方へ向かうことにした。


 正門の階段から出ても鑑と鉢合わせだ。庭園の柵から身を乗り出して下を覗き込む。五メートルほど下にチカと歩いた道路が見えた。


 診療所での大間の言葉を思い出す──筋力の増強や骨格の強化などといった単純な身体機能の向上から、本来人間に備わっていない器官の作成まで可能さ。

 凪は千鶴にマイクロマシンを送り込まれたあとの身体感覚から、そうした変更が自分の体にも適用されたことを直感していた。


 悩んでいる時間が惜しい──凪は柵を乗り越えた。


 でこぼこしたコンクリートの擁壁を滑り落ちるように駆け下りる。二回ほど壁を蹴ったところで、両足が完全に宙へ浮いた。

 寸刻の浮遊感。直後に道路へ足の裏が接地し、響くような衝撃が頭に抜けていく。凪は勢いを両足で殺しきれずに思わず左手をついた。


 着地した体の状態に意識を向ける。


 足の裏は少し痺れているが、特にどこにも強い痛みは感じない。

 地面についた手のひらを確認する。少しすりむけているが、動かすのに支障はなさそうだ。

 屈伸をしてみる。足腰にも特に異常はない。


 確信する。単に痛覚が鈍くなっているわけではない。身体能力自体が強化されている。


 鑑とやり合う前に、この体ができるようになったことをもう少し試してみたい──凪は作り変えられた体の具合を確認しながら目的地へ移動した。


     *


 凪は『記憶』を頼りに、古民家にほど近い目的の崖下に辿り着いた。

 夏の熱気がじっとりと肌に纏わりつく。月明かりすら届かない夜の森に身を潜めながら、ゆっくりと慎重に辺りを見回す。


 目的の人影を目の端に捉えた時、心臓がドクンと跳ねた。


 少女の外見をしたその人物が、暗闇の向こうで岩肌を背にして腰掛けている。

 すっと研ぎ澄まされる五感。前傾した体がぴたりと固定され、両目がじっと、標的に集中する。


 僅かな光を頼りに少女の様子を観察する。まだこちらには気づいていない。服の胸元に血の赤が滲んでいる。

 彼女はすぐ上の崖で傷を負ってここに転落した。命に別状はなさそうだが、殺し合いをするほどの元気はなさそうだ。だから傷が癒えるまでこの場所で休むことを選択したのだろう。


 暗闇をざわめかせる風の音に紛れて、息を殺しながらゆっくりと歩みを進める。彼女の呼吸音が、体を動かした時の衣擦れの音が、鼻腔に纏わりつく血の匂いが、じらすように大きさを増しながら感覚を刺激し、胸の鼓動を高鳴らせる。

 もう彼女はすぐそこだ。ドクドクと体中に興奮を巡らせる心音が届きそうなほどに。呼吸を止める。この手が彼女に届き、体を組み伏せて、その自由を奪う映像が鮮明に頭の中で再生される。


 無音の森。


 目の前の獲物以外の全てが消えた世界で、凪は地面を蹴った。


 こちらに気づいた少女の目が見開かれる。彼女は無駄のない動きで腰のホルスターに手を滑らせた。

 引き出された得物に飛びついて腕を掴む。そのまま強引に彼女の体をうつ伏せにし、背中を踏みつけてぐっと体重をかける。後ろ側にぴんと伸ばした細腕を、ぎりぎりと捻る。


「ごめん、千鶴」


 ぶちぶちと組織が千切れるような感覚とともに悲鳴が耳を劈いた。力の抜けた彼女の手から拳銃が零れ落ちる。

 踏みつけた背中が強い力でぶるぶると震えている。彼女は無力化しなければいけないが、痛みのショックで気を失われたら困る。まだ彼女には役割があるのだ。


「悪いけど残りの手足にも同じことをするよ。痛がるのはかまわないけど、ちゃんと起きてて」


「信じらんない!」千鶴がぜえぜえと呼吸を荒げながら言う。「これがアンタの趣味!? 殺すなら普通に殺しなさいよ!」


 もう一方の手首を掴もうとして、強く振り払われる。

 面倒だ──抵抗して暴れる千鶴の髪を掴み、顔を地面に叩きつける。


 肉が潰れる鈍い衝撃を腕に感覚した後で、彼女の体からぐったりと力が抜けた。


 まだ死んでもらっては困る。凪は少し焦りながら髪を掴んで彼女の顔を引っ張り上げた。地面にポロポロと白いかけらが落ちていく。歯だ。


「千鶴。起きて」


 こちらが呼びかけると、朦朧としていた彼女の瞳にはっと光が戻った。


「よかった。まだ死なれたら困るんだ」


「……ろういうことよ」鼻の潰れた千鶴が口角から血の泡を吹きながら不器用に言う。


「鑑を無力化するために君が要る。君は彼にとって、普通の仲間以上に人質として有効な人間のはずだから」


 千鶴の目に動揺が走った。当たりだ。


「君、鑑の親族だね。妻か娘か……関係の詳細までは分からないけど」

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