#22 「落日」

67

 チカから拳銃を受け取ったあと、凪はさらりと使い方の手ほどきを受けた。銃声でこちらの位置を悟られては困るため、実際に弾を撃つことはしなかった。


 右手に感じる、金属の重み。


 チカは一通りの説明を終えたあとで、どこかほっとしたように表情を少しだけ緩めた。勘弁してほしい。まるで助かることを諦めているようだ。


「……言っておくけど、僕はこれを君に向けるつもりはないよ。これはあいつらから君を守るために使う」

「うん、ありがとう」


 ただこの場に相応しい言葉を選び取っただけのような空っぽの返答。少しの意味もない空虚なやりとりに、やるせなさで体が重くなる。

 君を守る──今の状況では、自分が口にしたその言葉すら空々しく感じる。そもそも今日に至るまで、自分は本当に彼女を守ることが一度でもできていただろうか。何度も彼女を危ない目に遭わせ、時に傷を負わせて、一度は死さえ経験させてしまった。


 そして今日、自分はとうとう彼女に守られてしまった。大きな代償を負わせた上で。



 少し時間が経ち、駅舎に留まっている状態にそわそわと不安が募ってきた。この場所は鑑たちの隠れ家から街へ出る経路のすぐ近くだ。自分が裏切り者を追う立場だったら真っ先にここを調べるだろう。


「移動しよう」


 凪の提案に、チカは特に何を言うこともなくただ頷いた。同じことを考えていたのかもしれない。あるいは、すでに何もかもがどうでもよくなっているのかもしれない。


 乗り場と反対側へ出る。見渡す限りに建物は少なく、田畑の跡地のような平たい土地に様々な種類の雑草が犇めきあいながら風に揺れている。普段ならこのひらけた景色の開放感を快く思うところだが、身を隠しながら移動しなければいけない今の状況ではこの見晴らしの良さがかえって頼りない。


 思い思いに茂る緑。その間を縫うようにして二車線の道が走り、その先に住宅街が見える。ひとまずあそこを目指して進むのがよさそうだ。


「凪くん」


 突然呼びかけられて後ろを振り向く。チカはまだ建物の日陰の中、目を伏せてぽつんと立っていた。


「何? 早く出よう」

「私を置いて、一人で逃げてもいいんだよ」


 チカは弱々しく、消えそうな声でそう言った。

 少し前の自分なら、彼女を想う気持ちが伝わっていないような気がして憤っていただろう。でも今はそんな気持ちも湧いてこない。それが純粋にこちらの身を案じているためだと分かるからだ。

 チカはもう疲れ切って、生きることを諦めている。逃げるための力をこちらに託してやることがなくなり、おそらく今は、死に方を考えている。


 彼女に歩み寄り、汚れた右手を掴む。そのまま出口へ向かい、強引に日向へ引っ張り出す。


「もっとはっきり言ってほしい?」チカが手を振りほどこうとする。「私はもう君といたくない」


 今の彼女の気持ちが分からないほど鈍感ではない。でも──


「僕はずっと君のそばに居続けるよ」


──それがどれだけ君を苦しめるとしても。


「私の気持ちはどうでもいいわけ?」

「ああ、どうでもいいね」


 凪はチカの手をぐっと引いて、草色に輝く景色の向こうへ駆け出した。


     *


 辺りを警戒しながら無人の住宅街を慎重に進む。


 見ず知らずの土地。庭付きの戸建てが多く高い建造物もないため、頭上には広い空がどこまでも頼りなく広がっている。人口密集地ではまず見かけることのない疎らな街並みが、凪に遠い場所へ迷い込んだことを実感させる。

 自分がどこを移動しているのかもよく分からないまま、不安から逃れるためにひたすら足を動かす。普段なら携帯端末で周辺の地図を確認するところだが、そんなものはとっくに鑑たちに取り上げられている。


 そんな凪たちの前に緩やかな坂が現れた。道の先は高台へ続いている。


 周囲の様子が一望できるかもしれない──そんな期待を抱きつつ、見晴らしの良い場所を目指して上へ進む。


 廃駅を出てから今まで特に言葉を交わすこともなく移動を続けていた。しかし喉の奥ではずっと前から、満杯の罪悪感が溢れるときを待っている。

 声をかけようとしてチカをちらりと確認し、彼女のふてくされたような顔を見て断念する──そんなことを何度か繰り返した。


 右手に握りしめた拳銃の重みを意識するたびにチクリとした痛みが胸を刺す。このまま何も言わないでいるのはもう限界だ。


「……ごめん、チカ」


 ようやくその言葉を口に出す。

 誠実でないと思いつつも、後ろを歩く彼女の方を振り返ることはできなかった。


「……何が?」


 背中にチカが問いかけてくる。今更謝られたことが意外だったのだろうか。あるいはこれまでに苛立った出来事がありすぎて、何について謝られているのか分からないのだろうか。


「君に鑑さんたちを撃たせたこと。目的を遂げるためにはあの人たちの協力が必須だったはずだよ。それなのに、君は僕を守るために彼らの仲間でいることを諦めた」


 話し終わったあとで、不意に服の背中を掴まれて立ち止まる。

 どうしたんだろう?──凪はチカの方を振り返った。


 彼女は少し困ったような、慌てたような表情でこちらを見ている。


「違うの、凪くん」チカが言う。「千鶴ちゃんや鑑さんを撃った時、確かに私は凪くんのことを考えてた……けど、安心して。そういった理由がなくても私はあの人たちを撃ってた。私がそうしたのは、私怨があるからだよ」


「私怨?」


 チカが彼らに恨みを持っていたなんて初耳だ。彼らと出会ってまだ日が浅いというのに、一体いつそこまでの殺意を抱かせるような出来事が起きたのだろう。


「あのね……」チカは眉間に皺を寄せた。「今朝『思い出した』記憶の中で、まだ凪くんに話してないことがあるの。あの人たちが今までやってきた具体的な活動について」


 チカはそのことについても知っているのか──鑑からその話を聞こうとして、話が核心へ触れるタイミングで中断したことを思い出す。

 しかし分からない。鑑たちは一体なにをして彼女の怨みを買ったのだろう。ともかく──


「そのことは僕もちょうど知りたかった。話して」


 チカはこくりと頷き、こちらの目を真っ直ぐに見つめてきた。思いがけず真剣な顔をされて少し気圧されてしまう。単に個人的な事情を打ち明けるときの顔には見えない。彼女の目には、まるで『君も無関係じゃない』とでも言うように力が込められている。


「私が死んだあの事故を起こしたのはね、鑑さんたちなんだよ」


 時間が、止まった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る