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 チカの手を引いて夏草に覆われつつある線路の上を小走りに進む。握り返す手の力は弱く、足取りもこちらに着いてくるために仕方なく動かしているような感じだ。山道を転びそうになりながら疾走していたときの勢いはもう感じられない。気力が途切れてしまったようだ。


 錆色をした瓦屋根の駅舎に駆け寄り、脇に設置された小さな石段を登って乗り場に立つ。

 建物は簡素な作りだった。出入り口には扉すらない。中を覗くも、そこにはがらんとした朽ちかけの日陰があるだけだ。ベンチや発券機など、駅と聞いてイメージするあらゆるものはすでに片付けられていて、後には何も残っていない。

 こんな場所でも外にいるよりは安全だろう──凪はチカと一緒に構内の隅に移動し、壁を背にして座った。


 隣を見る。チカはまるで電池が切れたように、ぼんやりと膝を抱えて座っている。その頬にはこすったような暗い赤色の汚れが付いていた。


 今の彼女にかける最初の一言が出てこない。それが書いてあるわけでもないのに、目線は意味もなくひび割れた白い壁を泳ぐ。案の定見つかるのは汚い落書きばかりで、気の利いた言葉は一つもない。


「あの人たちはね」チカが先に口を開いた。「はじめから凪くんを仲間として受け入れるつもりなんてなかったの。欲しかったのは、君の生きた体と戸籍だけ」


 淡々とした声がしんとした舎内に響く。その言葉の意味はまだよく分からない。


「どういうこと?」


 凪の質問に、チカは汚れた頬を持ち上げて薄ら笑いをつくった。


「この血はね、千鶴ちゃんのものなの」


 彼女は汚れた指をこちらに見せるようにすっと掲げる。その華奢な手は、まるで朱殷しゅあんの模様が描かれた白磁のようだった。


「機械であるはずのあの子を撃った時、飛び散ったのはこんなにも生臭いものだった。うっかり自分が死んだ日のことを思い出して少し笑っちゃったよ」


 アイボリーの前髪に隠れた眉がひそまる。口元には引きつったような笑みを浮かべていた。


「よく覚えてる……冷えていく体が漏れ出した自分の体温に浸されて、立ち上った噎せ返るような命の臭いに包まれて……。でもおかしいよね、どうしてあの時と同じ臭いが千鶴ちゃんから吹き出したんだろう」


 チカが横目でこちらを見る。クイズに答えてほしいようだ。

 これまでの話から、『千鶴が人間だったから』なんて答えじゃないことは簡単に想像がつく。正解にあたりをつけた凪が顔をしかめると、チカはこくりと頷いて目線を床に落とした。


「千鶴ちゃんの体も鑑さんの体も、生きた人から奪ったものだったの。もともとの体の持ち主はその処置の過程で消えた。記憶は取り出され、十二人の仲間全員がその人になりすませるよう共有された。凪くんもあのまま車に乗ってたら、殺されて体を奪われてたんだよ」


 チカの目が殺意を思い出すように見開いていく。舎内の空気が、ピンと張り詰める。


「体だけじゃない。私とふたりきりの誰にも見せたくない記憶まで奪われて、あの人たちに晒すところだった。そんなの、絶対に死んでも嫌」


 その事実は、単純に自分が殺されることよりも強い怒りを彼女に抱かせたらしい。ふたりだけの記憶。ふたりだけの時間。ふたりだけしか知らない、ふたりだけの秘密。それを侵されるのは、チカにとって何よりも許せないことだ。彼女が愛を独り占めするのに強く拘ることを、自分がそういった気持ちを向けられていることを、凪は身をもって知っていた。


 しかし、そうだとしてもチカの怒りようは異常だ。


 いくら鑑たちに嵌められそうになったとはいえ、彼女は撃った相手に少しの同情も見せず、むしろ今この瞬間もその顔を怒りで飽和させている。普段の虫も殺せない彼女と今の表情の間には、まだ説明のつかないギャップがある。


 他にも説明に納得できないところがある──鑑の振る舞いについてだ。


 駐車場で男の体を事も無げにねじ切っていたあの怪力は人間のそれではない。それに、彼が自分に向ける態度は決して暖かくはなかったものの、少なくとも殺す予定がある人間に対するものではなかった。上辺を取り繕っていた可能性はあるにせよ、彼は演技ができるタイプには見えなかったから、やはり違和感がある。


「……鑑さんがそんなことをするなんて信じられない。何かの間違いじゃないかな」

「君を殺すことに反対してたのは十二人の中でも鑑さんぐらい。他の人たちは大体、問題が起こる前に早く処置したほうがいいって思ってる」


 まるですでに十二人の全員と話してきたような返答だ。そんな機会はなかったはずだが、自分の知らないところで何か聞かされていたのだろうか。


「どうしてそんなことを知ってるの?」

「今朝凪くんと二人でいた時、そのことを『思い出した』の」


 今朝──確かに彼女は様子がおかしかった。取り乱しながら、記憶に混乱があると口走っていた。

 しかし話が見えない──鑑たちが僕を殺すかどうかの判断を、どうしてチカが『思い出した』んだ?


「その内容があまりにも信じられなかったから、最初はでたらめな記憶を自分で作り出しちゃったのかと思った……けど、それにしては何もかもが鮮明すぎて、私はそれを無視することができなかった。だから今日千鶴ちゃんと二人きりになったときに質問したの。そしたら彼女が『その記憶は本当のものだ』って」


「意味が分からない……どうして君がそんなことを知ってるの?」


「千鶴ちゃんが言うには、この記憶は私が経験したことじゃないみたい」


 チカは寒気に耐えるように少し体を丸め、口元を嫌悪するように引き結んだ。


「……この頭が、あの人たちの意識がつくりだすネットワークと繋がり始めてる。このまえ投与されたマイクロマシンのせい。このままだと私は記憶も意識もみんなと繋がり合って、その一部になっちゃう」


 絶句した。


 意識が彼らと繋がり合う? それは一体どういう状態なんだ?

 想像する。誰かと心をつなぎ合わせる感覚を。チカが知らない誰かと、記憶も感覚も、心に抱く何もかもをさらけ出しあって、お互いの中を出入りすることを。

 もちろん自分はそんな経験をしたことがないから、本当の体感がどのようなものかは分からない。しかし彼女の語る言葉は、どう解釈してもこの胸に強い嫌悪感を抱かせる。


 しかし何よりも心配なのはそこではない。このまま放っておいたら、彼女は──


「……君は、消えちゃうってこと?」


 チカは首を縦にも横にも振らず、何かを考えるように少し沈黙する。


「……鑑さんや千鶴ちゃんと同じようになるんだと思う。あの人たちも基本的には常に仲間全体の意識と繋がってるはずだけど、自己認識は消えずに維持されてる。千鶴ちゃんも『意識の統合によってアンタから何かが失われるわけではない』って言ってた。本来不要な会話でのやりとりに拘るのは、不用意に互いの心に干渉しあわないようにするためだって。でも、やっぱりそんなの信じられない。あの人たちと繋がった後の私が今の私と同じだと思えない」


 チカの声は震えていた。その不安はよく分かる。鑑たちの記憶と自分の記憶が同列に扱える状態に置かれたとして、そのときの自分がどうして今の自分と同じものだと言えるのだろうか。


 薄暗い地下の水槽で浮いていた、白い人型の物体を思い出す。チカがあんなものの中で、どこの誰とも知らない人たちと一つになってしまうなんてまっぴら御免だ。


 でも一体どうすれば──人類未踏産物レッドボックスのマイクロマシンによる制御系の変質を止める方法なんて分からない。信号を遮断しようにも、どんな伝送手段で情報をやりとりしているのかすら知らない。


 ふと脳裏に浮かぶ、一つの記憶。空き教室の窓際で、その姿は柔らかな光に縁取られていた。


──晴香


 凪は心底情けない気持ちになった。こんなときまで女の子に、よりにもよって自分から拒絶した人に縋ろうとする気持ちが湧いたことに。その都合の良さに、自己嫌悪で吐き気がする。


 どうしたらいいか分からない。こんな状況、ほとんど詰みじゃないか──諦めかけて泳いだ視界が、血だらけのチカを横目に捉える。その姿に、彼女を見捨てて炎の中から逃げ出したあの日の情景が重なる。


──胸が張り裂けそうだ。



「……凪くんに、頼みがあるの」


 次の行動を考えあぐねていた凪に、チカはぽつりと切り出した。


 振り向く。


 チカは座ったまま、赤黒く汚れた指先でフレアスカートの裾を掴んだ。その手が無感情に腰まで引かれ、隠れていたものが顕になる。すらりと頼りなくのびた雪肌の上腿。そこへ蛇のように巻き付く、華奢な足には似合わない無骨なレッグホルスター。

 彼女は艷やかに煌めく黒革へ指を滑らせて鈍色の光を掴み、ずるりと引き抜いてこちらに差し出した。


「いざとなったらこれで私の頭を撃って。使い方は後で教えるね」


 入り口から差す光に照らされたそれは、食事をした後の獣のように口元を汚していた。

 怪物が彼女を喰らう様を思い浮かべる。生臭い鉄の臭いが鼻をかすめて、その想像はよりいっそう鮮明になる。


 チカと目が合う。自分が何を思い出しているのかは、恐らく伝わってしまっただろう。


 その答え合わせのように、彼女が蛇の目になった。

 ぞくりとして、顔を背ける。


「……いつかとは違う。これだけは、本当に無理だよ」


 精一杯の拒絶を言葉にするも、チカは左手を引き寄せて無理やりそれを握らせてくる。


「どのみち私がこれを持ってると危ないから君が持ってて。もうこの体がいつあの人たちに乗っ取られるか分からないし……。安全装置が付いてないから、扱いには気をつけてね」

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