#21 「白蛇の頼み事」

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 山道を転がり落ちるように全速力で駆け下りる。足元の舗装は風化してひび割れており、凪は何度か足をとられて転びそうになった。

 チカは血に濡れた白い素肌に木漏れ日を浴びながら、もうずっと息を切らさずに前を走り続けている。そんな背中を何も分からないままただ追いかける。

 風に乗って生っぽい鉄臭さが漂ってくる。肺に入り込んだ瞬間に吐き気を催させる独特の臭い。彼女の服を汚しているのが誰かの血であるというのは間違いなさそうだ。


「ねえ! どうして服が血だらけなの!? なんで鑑さんを撃ったの!?」

「いっぺんに聞かないで!」チカが走りながら怒鳴る。「後で話すからとにかく今は急いで!」

「意味分かんないよ! ちゃんと説明して!」

「捕まったら凪くんは殺されちゃうの! 分かったらちょっと黙ってて!」


 殺される? チカは何を知っているんだ?──次々と湧き起こる疑問に気持ちが空回るが、とにかく今は逃げるしかないらしい。

 溢れる様々な気持ちを無理やり抑えつけてただひたすらに走り、鑑たちの隠れ家から距離を取る。


 山道を抜け、木々の生い茂った森が途切れた。空を遮るものがなくなり、夏の日差しが肌を照りつける。


 森の出口のすぐそばに廃線跡の踏切があり、チカはその前でようやく立ち止まった。

 もう限界だ──凪は電柱によろよろと近寄り、肩を預けるようにして寄りかかった。喉は激しい呼吸で酷使されてすでに焼けそうなのに、全身の細胞はなおも酸素を求めて悲鳴を上げ続けている。痛みに耐えながら肺の中を換気し、ようやく少し息が落ち着いてきたというところで、弛い吐き気がぼんやりと胸元にのぼってきた。酸欠のせいだ。


 まだドクドクと拍動する心臓を深い呼吸で落ち着けながら、考える。


 チカは鑑を撃った。彼女の服の状態から察するに、恐らくその前にも一人撃っている。相手が誰かも予想がつく。

 捕まったら凪くんは殺されちゃう──チカはそう言った。一体どういうことだろう。彼女が引き金を引いたのはこの命を守るためだとでも言うのだろうか。

 まだ分からないことだらけだが、はっきりしていることもある。鑑たちとの協力関係は今日で終わりだ。晴香を裏切り、鑑たちを裏切り、チカの目的を達成するための頼みの綱は全て切れた。

 晴香を見捨てるように促したのはこの僕だ。その上、鑑への裏切りも自分が原因なのだとしたら──胸を不安が覆っていく。


 チカを見る。


 抜けるような青空と大きな夏雲、煤けた遮断器、錆びついた線路に茂る雑草──夏の日差しの下に全ての色を敷き詰めたようなくっきりとした景色の中で、彼女は血を浴びた白いブラウスを一際鮮明に輝かせて空を仰いでいた。

 郷愁も暴力も愛も死も、何もかもがそこに描かれていて、何を思えばいいのか分からなかった。色も意味も景色の中でぶつかり合うように溢れ、混濁していた。


 思い出す。あの日もこんなふうに景色を見ていた。


「もう、嫌……」


 色とりどりの絵の具で汚れたパレットような風景の中、チカは眉根を寄せて微笑を浮かべながらぽつりとそう呟くと、顔を隠すように背を向けた。


 呆然と立ち尽くすチカの背中を、何もせず、ただぼおっと眺める。


 罪の象徴のような血塗れの彼女。いつか嗅いだことのある強烈な死の臭い。

 自分は、彼女から命を賭して達成しようとしていた目的をとうとう奪ってしまったのだろう。彼女が命よりも大切にしていた誇りを傷つけたのだろう。彼女が今日まで耐えてきた痛みを、その心身に受けた暴力の傷跡を、無意味なものにしてしまったのだろう。


 でも、それが何?

 無言の背中との会話の後で、ふと、開き直りのような気持ちが湧いてくる。


 これまでの行動の全てはチカを守るためにやったことだ。チカがどうしたいかより、チカが無事でいることの方が大事だ。チカの気持ちより、チカが隣りにいてくれることの方が大切だ。

 この先どうあっても、もう絶対にチカを失いたくない。どれだけ自分の行動が彼女を傷つけるとしてもだ。


 むしろ自分が彼女につけた傷の深さだけ、より深く愛おしさを感じる。


 電柱にもたれていた凪は鉛のように重くなった体をなんとか起こし、辺りを見回して手近な隠れ場所を探した。山を下りたからといって安心してはいられない。仮に鑑の仲間が命を狙いに来たとして、こんなに開けた場所にいては格好の的だ。

 線路の少し先に簡素な作りの廃駅が見える。小さな駅舎があるから、そこに隠れられそうだ。


 もう一度チカの方を振り返る。彼女はまだこちらに背を向けて立っているが、もう空を見てはおらず、その場でうつむいていた。


「チカ」


 背中に声をかけるが、反応はない。


「そこの駅舎まで行こう」


 話したいことは山ほどあるが、全ては身を隠せる場所で落ち着いてからだ。

 二人でいられるならどれだけ悪者として扱われても構わない。どれだけ嫌われても彼女の手は離さない。二人でどこまでも逃げて、生きてやる。


 そして少し落ち着いたら、またいくらでも彼女のしたいことを手伝おう。


 チカは少しの沈黙の後、無言で小さく頷いた。

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