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「……ちょっと待って」


 話が飲み込めない。何か聞き間違えたのかと思い、何度も頭の中でやりとりを反芻する。


「私を殺したのは鑑さんたちってこと」


 チカは動揺するこちらの様子を察したように短く付け足した。どうやら聞き間違いではないらしい。


「……どうしてあの人たちがそんなことを?」


 チカは何か考えるように目蓋を閉じた。間を置いてもう一度その目を開き、視線を高台の方へ向ける。


「歩きながら話そう。ちょっと長い話だから」


 確かにこんな場所で立ち止まっていたら危ない──頷き返し、坂道を再び歩きだす。


 さっきまで後ろを歩いていたチカが隣に近寄り、口を開いた。


「……ヒギンズをこの世界から引き剥がすために鑑さんたちが目論んだのは、人々に生活基盤としての信頼を失わせることだった。対象が人の道具である以上、この世界の構成員に不要と判断させればどんなものでも例外なく排除できる──たとえそれが人類を超越した知性体であっても」


 チカは簡単そうに言うが、本当にそんなことが可能なら、そもそもここまで社会インフラとして浸透するほどの信頼を獲得することができなかったはずだ。


「そんなこと本当にできるの?」


「さあ」チカは頷くこともせず淡々と言う。「でも、鑑さんたち……そして私が持っている力を使えばできるかもしれない。ヒギンズの頭脳にほとんど任意のデータを忍び込ませることができるから」


 ヒギンズの箱庭に潜り込む能力──たしかに、これは使いかた次第で相当強力な武器になる。今思えば鑑たちがわざわざ箱庭の中に仲間を受け入れる窓口を置いていたのも、この能力を持った機体を選別するためだったのかもしれない。


 鑑たちの狙いがだんだん見えてきた。


「……彼らはヒギンズに頼り切った現状への社会不安を煽るため、箱庭に干渉する能力を使って人間の行動予測を混乱させることで事故を誘発していた──ってこと?」


「そう。社会基盤を担うシステムとしての信頼性が崩れれば、利用者である社会の構成員はそれを別の何かに置き換えざるをえない。あの人たちがこれまでやってきたのは、そういうこと」


「……その目的のために、君は死んだのか」


──本当に、やりきれない。


 ただ純粋に彼らを憎むことができたらどれだけよかっただろう。


 チカの命を奪った人たちの立場でもの考えるなんて吐き気がする。しかしもう、鑑たちが抱えるものの重さを他人事として捉えることはできない。彼らが抱える苦悩は、チカが抱えるそれと同じものだからだ。

 彼らは搾取され続ける仲間の犠牲と活動によって失われる命を天秤にかけ、前者を選択した。チカの命はその天秤の、選ばれなかった側に乗っていた。


 もし自分が鑑の立場だったとしたら──その想像は、心のうちに受け入れがたい感情を浮かび上がらせる。

 事故が起きたあの交差点は全自動車以外の通行が禁止されていた。箱庭に潜り込める存在にとっては絶好の攻撃ポイントだろう。子供が車の玩具をぶつけて遊ぶのと同じぐらい簡単に、どれだけ派手な事故だってデザインできる。そんなチャンスに気づいたとして、そこで自分は何もしないことを選択できるだろうか。



 どうして犠牲になるのがチカだったのだろう。


 この世界はチカから命を奪っただけでなく、死んだ後ですら、彼女に終わりのない苦悶を運命づけた。それは絶対に許せないことなのに、この怒りを何に向けたらいいのか分からない。

 ヒギンズ、鑑たち、C8NVM制御系の開発者……複雑に関係し合う現実が絡みついてくる。がんじがらめの心のなかで、行き場のない怒りがぐつぐつと熱を増していく。


 縛られた体を火で炙られるような気持ちの中で、思う。


──もう正しさを選べなくてもいい。今はただ、彼女のための自分でありたい。


 チカを見る。彼女も同じ葛藤を抱えているはずだ。それなのに、その目は迷いに揺れることなく静かに前を見ている。


「……私は命を奪われ、凪くんから引き剥がされた」


 気がつけば縋り付く場所を求めるように、彼女の紡ぐ言葉に集中していた。


「人をそんな目に遭わせておきながら、温かい血の通った体でぬくぬくと生きているあの人たちのことを、私は許せなかった。その上あの人たちはまた私から凪くんを奪おうとしてる──」


 青ざめた空から降り注ぐ蝉時雨──


「──だから、殺さなきゃって思ったの」


 それを掻き分けて耳に届く、救いのような殺意の響き。


 いつから自分はこんなふうになってしまったのだろう。

 今は彼女の意志だけが、身動きの取れないこの心に道を示してくれる。


「チカ」


 肩を引き寄せて華奢な体を胸に抱きしめる。彼女の頭の後ろに手を回し、髪で隠れた耳元に唇を近づける。


「……やっぱり僕は、君がいないとダメみたいだ」


 少し体を離し、チカの顔を見る。

 彼女の目はわっと見開かれていた。それがやがて何かをこらえるように引き絞られ、歪む。

 ひとりぼっちの迷子が親を見つけたときのようだ。そんな彼女の表情、そして振る舞いの全てが、たまらなく愛おしい。



 鑑たちも、君をひどい目に合わせたこの世界も、全部ふたりで消してしまおう。

 君はひとりじゃない。君の意志が、君の中でのたうつ殺意が、僕にとっての救いなんだ。

 君が規定するものが、僕にとっては世界そのものだから。



 ふたりの間に強い絆が確かに存在することを伝えたくて、彼女の目をじっと見つめる。


「……そんな目で見ないで」チカはさっと目を逸らした。「凪くんはこれからまた、私がいない世界で生きていくんだよ」


 やはりチカは彼らに取り込まれて生きることより、この世界から消えることを選択しようとしている。でも──


「君は消えない。僕がそうさせない」


 チカはこちらの様子を伺うように、もう一度上目遣い気味の視線を送ってきた。

 彼女の頬に指先をそっと重ねる。目はまだ逸らさない。いちばん大事なことをまだ伝えていないからだ。


──絆の証に、もう一つ君に誓いを立てよう。


「あいつらは全員、僕が殺すよ」

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