63

 鑑に促されるまま居間へ移動し、座卓の前に腰掛ける。


 光量の不安定なライトに照らされていた夜とは違い、陽の光が入った部屋は隅々までもがくっきりと見える。柱や壁、畳など、部屋を構成するものは概ね年季の入った印象があるが、埃による汚れなどは見渡す範囲に確認できない。この広さの家を綺麗に保っておくのは大変なはずだ。鑑か千鶴のどちらかが掃除好きなのだろうか。


 鑑が机の対面に胡座あぐらをかく。こちらに顔は向けない。もっとも、鑑が他人に目を合わせないことに拒絶の意図はない。彼のそういった態度は、例えば猫が慣れた人の目を注視しないのと同じことだ。じっと人の目を見る癖のあるチカとは正反対だが、これはこれで親近感が湧いてくる。

 鑑は一度ポケットを弄るような動作をしたが、そのあと机の上に置かれた手には何も握られていなかった。その指がしばらくまごまごと居心地悪そうに動き、やがて胸のあたりで組まれる。


「前に伝えたように」鑑が話しだす。「俺たちの目的は『ヒギンズによるhIE行動管理の停止』だ。こんな夢物語を聞かされても常識的な感覚ではそれを遂げられるなんて到底思えないだろう。この世界には隅から隅まで他律制御のhIEが浸透している。社会自体が、ヒギンズの頭脳に癒着し切っているってことだ」


 彼は豊かに蓄えられた顎髭を触りながら、何かを考えるようにしばし沈黙する。


「少し歴史の話をしよう」鑑が再び口を開く「2051年、アメリカの高度AI実証機 〝プロメテウス〟が技術的特異点を突破した。これが今超高度AIと呼ばれている存在の中で一番最初のものだ。そしてこの日以降、人類を超えた知性によって立て続けに超高度AIが造られていくことになる。2104年の現時点で存在する超高度AIは39基。これらの全ては、どれも人類の知性を超越した存在だ。俺たちの魂の源泉たる 〝ヒギンズ〟も、この39基のうちの一つさ」


 人類の知性を超えた存在──凪が生まれたときには、超高度AIが生活の基盤となった社会がすでにそこにあり、それを当たり前のものとして受け入れてきた。

 想像する。もし自分がそのような技術の黎明期に生きていたとして、そこで何を思い、何を感じただろう。超高度AI誕生以前の社会において、人類以上の知性の存在を、人類以外の者に認めることは一般的にはなかったはずだ。神様だとか、信仰の対象となる超越的な存在を除いては。


「この39基は超高度AIの製造と運用を管理するIAIA国際人工知性機構と、その条約締結国によって厳重な管理と封鎖が行われている」


 鑑のその言葉は、少し前に抱いた疑問に対する一つの答えであるように思われた。つまり人類にとっては、人類以上の知性体さえも──


「まるで兵器みたいな扱いですね。それも、人類自体の存続を脅かしうるクラスの」


「そうだ。表立っては人の役に立つための道具というツラをしているが、言ってしまえばこいつらは兵器なんだよ。それ自体が人間をも騙し、コントロールする可能性を持っているという点においては大量破壊兵器よりも話がややこしい。そういった性質がある以上、これらのAIを保有する国や組織、さらにはAIそれ自身の思惑によって、超高度AIの間でも協力関係や敵対関係が発生することになる」


 改めて彼とこんな話をするまで特に意識すらしなかったが、この世界では人一人の頭の中では想像もつかないほど途方も無い力がぶつかり合い、せめぎ合っているようだ。


「人間の知性の遠く及ばない存在同士の協力や敵対……なんだか神話みたいだ」


「いい感覚をしてる」鑑がにやける。彼の笑いのツボはよく分からない。「そんなお前に質問だ。この世界では神々が戦争をしている。お前はお前自身を生み出した神を許せず、なんなら殺してやりたいと思ってる。だが相手は人間には到底太刀打ちできない存在だ。そして厄介なことに、周りの奴らはみんなこの神様を信用している。今の社会はそいつの齎す恩恵なしに成立しないからだ。お前だったらこの状況で、どう振る舞う?」


 少し考える。要するにこの例え話は、鑑が置かれている状況そのものだ。例え話と言うほど現実と距離があるものではないかもしれない。

 そんな状況に置かれて、自分がとる行動は──


「仲違いしてる別の神様にお祈りしてみるとか、周りが味方するように神様の信用を失わせるとか、そんなところですかね」


 鑑がこくりと頷く。少なくとも的はずれな答えでは無かったようだ。


「話を戻そう」鑑は組んでいた手を解いた。「俺を含め、俺たちの初期メンバーはC8NVM搭載型ヒューマノイドの試作機だ。その頃の機体は、ヒギンズにおけるシミュレーションの計算単位としての能力を維持したものばかりだった。 〝ヒギンズの箱庭〟に体を持っているってことだ。今となってはその問題は対策されているがね。チカなんかは初期不良によって生じた例外さ」


 チカがあの風俗店を抜け出す能力を持っていたのも一つの幸運だったというわけだ。その幸運が、自分と彼女をまた引き合わせた。

 彼女の能力が引き寄せた運命は恐らくそれだけでない。チカが鑑たちの存在をどうやって知ったのかまだ分からないが、機械の体を与えられてから行動の自由が制限されていた手前、おそらく彼女たちは、ヒギンズの箱庭内で人間に隠れてやりとりしていたのではないだろうか。

 彼女との再会にも、二人でこの場所に流れ着いたことにも、何か特別な巡り合わせを感じてしまう。


「さて」鑑は話を続ける。「俺たちの持つこの能力は、ヒギンズを攻撃したい存在からすれば喉から手が出るほど欲しいものだ。その脳内に実際には存在しない人間のデータを潜り込ませることができるわけだからな。俺たちはこの能力をヒギンズの敵対組織に売り込み、協力関係を築くことに成功した。この組織も超高度AIを保有している。チカの記憶を回復させたあの血中マイクロマシンはその産物さ」


 大間が言いたがらなかったマイクロマシンの出処は、ヒギンズと敵対する超高度AIだったというわけだ。あれが人類未踏産物レッドボックスだという予想は当たっていた。


「それから今日まで、俺たちはこの組織と結託して活動している。そしてその活動内容は……」


 ようやく話の核心に触れる──机の下で握った手のひらにじわりと汗が滲む。

 続きの言葉が紡がれるのを待ちながら、じっと鑑の顔を見る。

 自然と音に意識が集中する。蝉の声に混じって、どこかで時計が小さくカチコチと鳴っている。


 言葉を待っていると、突然、鑑の顔がギョッとしたように歪んだ。


 全く予想外の表情変化にこちらまでギョッとしてしまう。自分の後ろに何かいるのかと思ってサッと振り向くが、そこには何の変哲もない少し変色した襖があるだけだ。


「ああ、そんな……」


 鑑の手が額に当たり、そのまま顔を擦るようにして顎髭に移動する。一度手のひら隠れた後で再び現れた目はギュッと瞑られ、眉間には深い皺が寄っていた。


「残念だ。本当に」

「どうしたんですか?」


 彼は深刻そうな面持ちで暫く沈黙していたが、やがてゆっくりと目を開けて、ゆらりと立ち上がった。座った状態で見上げる彼の体は大きな壁のようで、彼の無言は全ての戸が閉じられた二人きりの部屋に不気味な緊張を作り出していた。


 彼の目がこちらを向く。感情の読み取れない、ぎょろりとした動き。


「……悪いが、これからすぐに診療所へ向かう。お前も来い」

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