62

 凪が再び目覚めたとき、チカは隣にいなかった。


 蒸し暑い。服が汗でべとべとする。寝ぼけた頭で着替えようと考え、すぐにそれが叶わない状況にいることを思い出す。

 最近まとめて睡眠を取れていなかったところで中途半端に深く眠ってしまったためか、かえって怠さが増した。ここぞとばかりに体が休息を貪ろうとしているようだ。ムシムシとした空気も相まって余計に気だるい。

 体を起こすのを諦め、まだ少しぼやけた意識で天井を眺める。


 しばらくぶりに一人になった。


 今まで色々なことが立て続けに起きて冷静に現状を見つめる暇すら無かったのに、いきなり漠然と物事を考えられる時間が与えられてしまった。そうなると、嫌でも自身の置かれた立場の危うさに意識が向く。考えれば考えるほど、つくづくとんでもない状況だ。

 もう何日も家に帰っていない。しばらく都心には寄り付けないだろう。狐目の男に銃口を向けられたことではっきりした。晴香の手を振りほどいてチカを助けた自分は、既に命を狙われる状況にあるのだ。あの日晴香の家を飛び出してから、転がり落ちるまま、気づけばこんな辺鄙な場所に身を隠す立場になってしまった。


 もう元の日常には戻れない。


 あれから数日経って晴香への怒りも大分落ち着いてきた。今となっては彼女のことを思い出すたび、罪悪感で胸が刺されるように痛む。別れ際の自身の態度は彼女をひどく傷つけただろう。チカを助けたことで晴香もかなり危険な状態にあるはずだ。彼女はまだ、無事でいるだろうか。

 申し訳ないことをしたと思う。かといって、自分にはあのときマナを──チカを見捨てることはできなかった。


 今の状況は、自分で守るべきものを選択した結果だ。だから、この罪の意識から目を背けてはいけないのだろう。


 そんなことをぐるぐると考えているうちに緊張が戻り、だんだんと目が覚めてきた。危険、不安、罪悪感……そのどれもが、カフェインの入った飲み物よりもよほど頭を覚醒させる。

 寝汗で湿った布団から起き上がる。体を覆うベタベタの不快感。こんなとき、代謝のないチカの体が少し羨ましくなる。


 目をこすり、どうせ誰にも見られていないのだからと大きなあくびをしつつ立ち上がる。チカはどこへ行ったのだろう。


 ふと、障子越しに縁側を歩く鑑の影が見えた。

 戸を開け、彼の方を見る。相変わらずの大きな背中がそこにあった。昼間はいつも忙しく何かをしている印象だったが、今日は特に目的もなさそうにゆったりと歩いている。こんな日もあるのか。


「あの、すみません」鑑の背中に呼びかける。「チカ……いや、マナがどこにいるか知ってますか?」

「ん? ああ」鑑がもじゃもじゃの短髪を掻きながら振り返る。「千鶴と外に出てるよ。昼過ぎまでは帰ってこないはずだ」


 今日もか──昨日の朝も彼女たちはどこかに行っていた。

 なんとなく、危うい感じがする。思い過ごしかもしれないが、彼女たちは二人にしておくとつまらないことで仲をこじらせそうな気がするのだ。


「ああ、それとな」鑑が思い出したように付け加える。「チカで分かる。それがあいつの本当の名前なんだろ」

「えっ、どうして知ってるんですか?」


 その質問に、鑑は顔をほころばせた。


「今朝あいつをマナって呼んだときにな、訂正されたんだよ。えらく嬉しそうな顔してたな」


 その様子を想像し、胸に熱いものが溢れてぎゅっと詰まるような感覚を覚えた。今、鑑の顔を緩ませたのはその時のチカが見せた笑顔なのだろう。


 彼の顔から零れた笑みを見て思う──自分は今、何を願った?


 一人の女の子以外の全てをかなぐり捨てて、日常を飛び出した。そうして命からがら流れ着いた、機械の脳を持つ人たちの隠れ家。自分はただ一人だけ生きた脳を持ち、この場所に立っている。

 それは本来、孤独なことのはずなのだ。にもかかわらず、この心は久々に他人と繋がりあえる暖かさで満たされている。懐かしさすら覚えるほどに。


 そんな感覚の中で、思う。


 もう元の日常には戻れない。そういったものと引き換えに、チカのそばにいる事を選択したからだ。自分で選んだことの結果とは言え、やはり失ったものへの喪失感は拭えない。


 でも……


 この場所で、チカと、彼らと一緒に何かを築いていけたら──その想像は、これまでの日常よりもよほど色鮮やかに見えた。止まっていた時間を進め、もう一度生き直すことのように思えた。


 鑑がまた、こちらに背を向けて歩きだす。


「あの」


 気がつけば、無意識のうちに呼びかけていた。

 彼がもう一度振り向く。


「なんだ」


「僕たちは以前、鑑さんたちの目的を聞きました。でもあなたたちが具体的に何をしているのかまだ知りません。もう少し詳しく話を聞かせてもらえませんか?」


「あのな」鑑はこちらに目を合わせず言う。「お前に話せることはすでに全て話した。なんならちょっと話し過ぎなぐらいだ。前にも言ったとおり、生きた脳を持ってるお前をまだ信用できない。これ以上の話はできないよ」


 鑑の返答は予想通りだ。彼はまだ異分子の自分を信用していない。


「でも、チカを仲間として受け入れる以上、彼女はこれから色々なことを知るはずです。鑑さんたちが隠しても、いずれ僕は彼女経由でそれらの情報を知ることになるでしょう。それを防ぎたい場合、僕を始末するのが確実だと思いますが、それはチカが許さない。だから取れる選択肢は、僕とチカを両方仲間に引き入れるか、両方始末するかの二択しかないはずです」


 鑑は黙って話を聞いている。


「鑑さんが僕を信じられないのは無理もないです。僕には鑑さんたちに味方して、命を懸けて戦う理由が一つもないですから。でも僕は絶対にチカを見捨てられないし、彼女を守るためならこの命も惜しくありません。チカが彼女の目的を遂げようとする限り、僕はその手助けをします。そしてその達成のためには、鑑さんたちの力が必要です。そういった意味で、僕は鑑さんたちを裏切れません」


 自身の立場について、言うべきことは全部言った。あとは自分の希望を彼に伝えられれば。


「僕を仲間だと認めてください」鑑に頭を下げる。「お願いします」


 落とした視線の先で、ボロボロの服を着てその場に立つ自分の足が木漏れ日に照らされていた。まるで雑巾みたいだ。でも不思議とみじめには感じない。おそらく、これがチカを守るために足掻いた結果としての姿だからだろう。鑑の目に、この汚い自分の姿はどう映っているのだろうか。


 鑑は黙ったまま、しかし立ち去ることもしない。何か迷っているのだろうか。


 彼が無言の間、蝉が同じフレーズを何度も何度も繰り返す。頭から流れた汗が頬を伝い、床にぽたりと落ちる。じっとこちらを見つめる床の木目に、木の陰が重なってゆらゆらと揺れている。


 長い、長い沈黙。


「……座って話そう。居間に来い」鑑は短く言った。

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