#20 「同じ色」
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凪は朝の日差しを浴びながらそっと古民家の玄関を開け、チカと二人で音を立てずに中へ入った。
チカが控えめな声で「ただいま」と言うも、返事はかえってこない。鑑と千鶴はまだ寝ているようだ。
二人で顔を見合わせ、そのまま黙って靴を脱ぐ。早朝の静かな玄関に、服の布が擦れ合う音だけが響く。
先に靴を脱ぎ終わったチカが寝室へ戻っていく。軋む床の音を気にするようにそろそろと歩く彼女の背中を、同じようにそろそろとした足取りで追いかける。
そうして、二人で再び寝室に帰り着いた。
敷かれたぺらぺらの布団が出かけた時のままの形で出迎えてくれる。チカは少し疲れたようにぺたんと座り込んだ。
結局昨晩もほとんど眠れていない。凪も吸い込まれるように布団に転がり込む。
仰向けに寝そべり、チカと目が合う。彼女はまだ布団の上に座ったままで、頬に障子越しの陽を受けながらこちらを見下ろしていた。
チカの手を掴み、その体をぐっと引き寄せる。
華奢な体がぐらついて、アイボリーの髪がふわりと揺れる。彼女は突然のことに目を見開いて、わっという驚きの声を噛み殺すようにしながら胸元に倒れ込んできた。その薄い肢体を、ぎゅっと抱きとめる。
至近距離まで近づいた顔が少し呆れたように微笑んだ。そうして、腕の中で寝心地のよさそうな体勢を探るようにもぞもぞと動く。やがて落ち着けるポーズを見つけたのか、チカはすっぽりと凪の隣に収まったまま目を閉じ、静かになった。
彼女とくっついているのは気持ちいい。世の中の人々は素朴にこのような感覚を恋愛的な意味での『好き』と呼んでいるのだろうか。
どこともしれない場所から湧き上がる強烈な衝動に比べて、こういった感覚をそう呼ぶことに後ろめたさはない。それでも少しちぐはぐな感じはするが、案外みんな口に出さないだけで、そういった違和を適当にやり過ごしながらそれらしい愛の言葉を交わし合って生きているのかもしれない。まあでも、もう今はそんな言葉の話なんてどうでもいい。
チカの呼吸がゆっくりになっていく。それにつられて凪の呼吸もゆっくりになる。
──こうしていると、まるで心臓の鼓動を共有しているみたいだ。この感覚に身を委ねるのは、いつぶりだろう。
心がゆっくりと溶け合うような安心感の中で、意識がうとうとと眠りの底へ落ちていく。
「えっ」不意にチカが呟いた。
突然の緊張に晒されたような声。まるでゴキブリでも見つけたかのような。その声色はそれまで二人の間にあった穏やかな空気からあまりにも浮いていて、凪は少しギョッとした。
「どうしたの?」
「……何? この記憶……」
チカは焦った様子で前髪を掴み、掻き上げるような仕草をした。顕になった目は大きく開かれ、どこでもない場所を見つめている。とても普通の状態には思えない。
「ちょっと、本当に平気?」チカの肩を掴んで体を揺さぶる。
それからワンテンポ遅れて、チカはこちらの呼びかけに気づいたようにハッとした表情を見せた。
目が合う。何かに怯えているようだ。しかし彼女はすぐ何かを取り繕うように目を泳がせ、やがて顔を伏せた。
「……大丈夫……多分」
「ほんとに?」
「うん……記憶が戻ったばかりで少し混乱してるだけだと思う」
チカはそう言うが、ちっとも安心できない。何かとんでもないことを思い出したのだろうか。
凪はチカに質問しかけて、動揺している自分に気づきぐっと言葉を引っ込めた。
──二人で慌てていてもしょうがない。彼女が不安定なときほど、自分は冷静でいたい。
飲み込んだ言葉の代わりに、凪はチカの頭をそっとひと撫でした。
「そっか、分かった」
そのまま少し体を引き寄せ、小さな背中をポンポンと叩く。触れる手先から不安が悟られないことを祈りながら。
定期的なリズムで手を動かし続けながら再び目を閉じる。
気の早い蝉の鳴き声が耳に届く。朝の静けさは去りつつあるようだ。
もうすぐ蝉よりも騒がしいあの子が起こしに来るだろう。それまで、できる限り彼女に安心できる時間を与えていたい。
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