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「凪くんは君の中にある暗くて得体の知れない部分を『怪物』って呼んで、まるでそれを自分とは切り離されたもののように話そうとするよね。あくまで自分は清廉潔白で、内側に溢れる醜い感情は自分とは関係ないって顔をする」
チカの責めるような口調に少し腹が立つ。それ以外にどういった『怪物』との付き合い方があるというのだろう。
それが醜いのは生まれつきで、そのこと自体に自分の責任はない。そしてひとたび表出すれば他人を傷つけてしまう。だったら誰にも見えないように隠し、存在しないものとして扱うしかない。
わざわざそれを引っ張り出して『これが君だよ』なんて言うのはチカだけだ。彼女はどうしてそんなことをするんだろう?
「前にアカネちゃんがお客さんにどんなことをされたか話したこと、覚えてる?」
「うん」
その日の会話を思い出す。
── 一番最初に気づいたのは、顎が閉じなくなってだらんと長く伸びていたこと。
前歯はなくなってて、鼻は潰れてた。きっと顔を沢山殴られたんだと思う。
でも一番痛々しかったのは、左目が抉られてなくなっていたこと──
彼女が次に何を言うかはすぐに予想がついた。自覚があるからだ。
「私はね、君が怪物って呼んでるものと、アカネちゃんの左目を抉り出したものは同じだと思ってるよ」
そんなことは一々指摘されなくても自分が一番分かっている。
でも実際に言葉にしていいことと悪いことがある。自分はその行動を嫌悪できる心を持っているし、攻撃性を無軌道に誰かへぶつけることもしない。
「一体僕が何をしたんだよ」
「ごめんね、別に悪いことは何もしてない。でも、凪くんが怪物を君自身から切り離して無視するのはちょっと見てられない。はっきり言うね。君に恋愛感情が分からないのは、それが原因だよ」
人の気持ちを分かったように──凪の胸にイライラが募る。
「気づいても認められない、が実際に近いかな」チカが言葉を付け足す。
「何が言いたいのか分からない。話が繋がってないよ」
「憧れを壊すようで悪いけど、恋愛的な『好き』の源泉なんてかなりドロドロしてるんだよ。それだけじゃない。この世界で綺麗なものとして描かれる色々な感情は、その源泉をよく見ればあれもこれもみんなグロテスク。まず醜い自分を自分自身で引き受けないと、人の醜さから生み出される美しさの意味も本当には分からない」
チカはこちらの目を真っ直ぐに見つめてくる。その顔に眼帯をつけたアカネの顔が重なる。
想像してしまう。この右手の親指と人差し指で、彼女の左目を抉り出すことを。それと共に、自分の中で湧き上がる感情を意識させられる。
この強い嫌悪感は、誰にも言えない気分を抑圧していることの反動によるものだ。
「……無理だ。こんな自分、受け入れられない」
もう顔を見ていられない──凪は目を伏せた。
ふと頭に触れる
そのままチカに引き寄せられる。なされるがまま、彼女の胸に頭を埋める。もう何も見えない。顔いっぱいに彼女の温もりを感じる。
今抱きしめられているのは、彼女の何でもお見通しの目によって裸に剥かれた、怪物である自分だ。
「私は──」
頭上から柔らかな声が降ってくる。
「──君のことを、怪物である君のことも含めて愛してる。君のあるがままの形を愛おしいと思う。怪物が欠けた君を私は愛せない。それはもう君じゃないから」
ずっと寂しがっていた自分の奥深くが撫でられる感覚。これを与えてくれるのはこの世界でたった一人、チカだけだ。
彼女が怪物を拾い上げて優しい言葉をかけるたび、胸の奥にじわりと熱いものがこみ上げる。
ようやく意識する。自分は孤独に慣れようとしていた。誰も傷つけず自分も傷つかないように。でもチカはそれを許してくれない。寂しがる醜さをどこへ隠そうとしても、彼女は必ずそれを見つけて胸に抱こうとする。
そんな彼女の体温が、痛いほどに暖かい。
「……どうしてチカはこんな僕に優しくするの?」
「凪くんと本当の恋人同士になりたいから」
チカは醜い怪物をぎゅっと抱きしめて、髪をくしゃくしゃと撫で続ける。自分自身ですら受け入ることができず心の奥底に閉じ込めていたそれを、彼女はその胸に抱きしめ、優しさを与えてくれる。
*
チカの胸から顔を離した時、眼下の街はすでに青色の時間を通り越し、朝焼けに彩られていた。
服の胸元をびしょびしょにしてしまった。我に返り、申し訳無さと恥ずかしさがこみ上げてくる。耳が赤くなっているかもしれない。
「……明るくなってきちゃった。もっと話したいことはあったけど、今日はここまでにしよう」
彼女に優しく頬を撫でられる。
男らしく振る舞えず、弱さを晒して慰められている時間はむず痒い。でもそういうとき、チカは決まって満足そうに微笑んでいる。
照れ隠しで優しさを突っぱねるようなことはもうしたくない。その代わり、何か彼女に、一つでいいから返したい。
── 一体何を言えば、チカを喜ばせられるだろう。僕は今、彼女に何が言えるだろう。
「チカ、僕の目を見て」
彼女の目を真っ直ぐ見つめる。彼女は「なあに」とでも言うように、微笑を浮かべながら少し上目遣い気味の目線を送ってくる。昔と今では顔の造形が全く異なるのに、その仕草から伝わる子犬のような印象は昔のままだ。
「やっぱり僕は、まだ恋とかそういうのはよく分からない。でもこれだけは言える」
──あの頃はこの言葉を使えなかった。その意味が分からなかったからだ。でも、今なら伝えられる。
「僕は君のことを──」
チカはきらきらとした瞳でこちらを見つめたまま、口元から嬉しさを溢れさせるようにはにかんだ。その頬に差す赤みが強くなっていく。
「……その言葉は本当だね。うれしい」
きっと自分の顔もチカと同じように赤くなっている。照れくさい。どうかその色が朝焼けに紛れて曖昧になっていてほしい。そう願う一方で、彼女とふたりきり、同じ色をしてこの場所で咲いているのも悪くないなと思う自分がいる。
チカは少しだけ顔を伏せ、重たい
「凪くんはまだ私のことをあの人みたいには見てくれない。でも、今はそれでいいよ」
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