59

 気がつけば見晴らしのいい場所に来ていた。崖のようだ。星空は地上との切れ間で微かに白み始めていて、その下で誰もいない街が黒い湖のような闇に沈んでいる。

 景色を見渡せる丁度いい場所に木造のベンチが置かれていた。かつてはここにも人が来ていたのだろうか。


 近づいたところで、少し座るのを躊躇する。


「虫……いないかな」

「大丈夫でしょ」


 チカはベンチを手で軽くはらい、特に躊躇いもせず腰掛けた。

 何が大丈夫なんだ──座面を凝視するが、暗すぎて曖昧にしか状態が分からない。動いているものは一見なさそうに見える。


「どうしたの?」チカがからかうように笑う。


 ええいままよ。


「別に」凪はチカの隣に腰掛けた。


 揺れる大気のスクリーン上に星屑が流れ、瞬いている。音のしないざわめきが、空に反響していた。

 ふとチカの表情が気になり、ちらりと横に目をやった。彼女は正面の景色から仄かに青く照らされて、微笑を浮かべながら夜を眺めている。

 それはかつて二人で映画を見た日の横顔に似ていた。照らされた肌の青さも、二人を包み込む世界の薄暗さも、目の前に映し出される景色の大きさも、何もかもがあの日とそっくりだ。


 そこで見た物語はどのように始まり、どのような結末で終わっただろうか。


「いい夜だね」チカが隣でぽつりと言った。

「うん」


 あの日と違って、スクリーンの向こうには誰もいない。今日の自分たちは観客ではなく主人公だ。物語を進めるには、この口で言葉を紡ぐ必要がある。


「さて」チカが切り出す。「凪くんの質問に答えないとね。私が君に向ける『好き』が、一体どんな意味なのか」


 ようやくチカの口からその答えが聞ける。もう一生知ることができないと諦めていたチカの気持ちに、やっとこの手が届く。


「まあでも気持ちの話って主観的なものだから、私の頭と君の頭がくっついて心が一つになったりでもしない限り、どんなに言葉を重ねても伝えられないんだよね」


 いきなり話が明後日の方向に飛んだ。思わず椅子からずり落ちそうになる。

 今更このタイミングでそんな極論を話されても困る。普段のチカは一々こんな理屈っぽい断りを入れる人ではない。彼女にとって、その事実はわざわざ言葉で明示しなければいけないほど重要だということだろうか。


「実は私、恋人同士が一般的にどういう気持ちで『好き』って言葉を交わし合ってるのか、確実に君に伝える方法を知ってる。でもそれをするのは私にとってすごく悔しいことだし、君もきっと怒ると思う」


 まるでこちらの心を俯瞰しているような物言いだ。昔読んだSF小説の情景が浮かぶ──僕は迷路の中を動き回るネズミ。彼女はそれを上から観察している研究者。


「だから、愚直に君への気持ちを言葉にすることしかできない。正直私にはそれがどれほど意味があることか分からないけど、それでもいい?」

「うん。チカにとっての『好き』って何?」


 随分もったいぶるな、と感じつつ改めて質問を返す。自分の顔は笑っていたと思う。


 チカの口元が一度照れくさそうに結ばれ、やがて開かれる。



「その人になら殺されてもいいって思えること」



 物騒な台詞とは裏腹に、彼女はその目をきらきらと輝かせて言葉を紡ぐ。


「君が私だけを見続けてくれるなら、私は君に全てを奪われたっていい。君になら、この命も含めて私の全てをどうされても構わない──少なくとも私が君に言う『好き』は、そういう気持ち」


 チカの横顔は淡く拡散した夜の青さの中にありながら、日向ひなたにあるかのような華やかさで咲いていた。好きだという気持ちを語る時、女の子はこんなにも息が詰まるような美しい表情をするものなのか。彼女の中にあるのはとても尊いものだ。そして自分は、彼女にその感情を向けられている。


 そんな気持ちを持ち寄って絡め合うのは、一体どれだけ幸せな瞬間になるのだろう──強い憧れが、胸を締め付ける。


 でも、その気持ちがどのようなものなのか全く想像がつかない。


「そうなんだ……すごいな。でもやっぱり、僕にはそれがどういう感覚なのか分からないや」

「そうだろうね。君が私のことを大切って言うのは、たとえば星野くんのことが大切だとか、そういうのと同じだもんね。それが嫌だから、私はズルい手段で君の特別になった」


 風が吹いて、夜の森がざわめいた。


「凪くんは私のことを、殺してみたいと思う?」


 いきなり何を言い出すんだ──凪は目を丸くした。そんなこと無理に決まってる。たとえ彼女から直接頼まれたとしてもできないだろう。


「君が僕の前からいなくなるなんて、考えるのも嫌だよ」

「そういうことを訊いてるんじゃない。分かるでしょ?」


 ふたりきりで話す時、チカはしばしばこちらの胸に手を突っ込み、ドロドロの中から醜いものを掴みとってこの目に見せようとする。


──凪くんはこんなに醜い。私はそのことに気づいてる。その上で、私はそれを受け入れてあげる。


 何度も繰り返されてきたこの暴力的な営みが、チカとの繋がりを他の人よりも特別なものにした。

 そんなふうに繋がることの苦しさ、後ろめたさ、強烈な喜びが綯い交ぜになって、もう自分の中でこの時間をどう捉えていいか分からない。そして結局いつも、彼女とのこういったやりとりを拒めずにいる。


「まあ、言いたくないならいいけど。私が今から話したいのは、君が『怪物』って呼んでるものの話」

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