#19 「ずっと話せなかったこと」

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「この体は自分のものじゃないって実感がずっとあったんだ。マナと呼ばれて毎日知らない男に抱かれ続けているこれは自分とは違うものだって。その感覚がなかったら、たぶん今日まで耐えられなかった」


 チカは仰向けに寝転がり、天井を見つめながらそう話す。月明かりに縁取られた横顔が暗闇に語りかけている。


「死んだ人は天国に行く前に、罪を清めるための罰を受けなきゃいけないんだって。私は何かの神様を信じてるわけじゃないけど、そういう教えを信じてる人がいることは知ってる」


 彼女の口調が冗談を言うように少し演技がかる。その声の調子に何が言い含められているのかはまだ分からない。


 でも、嫌な予感がする。


「私はあの時死んだはずなのに、目を覚ました時に自分がいた場所は天国じゃなかった」


 今日の夜は静かだ。時計の秒針が発する音とも言えないような音ですら耳に知覚される。この体を通り抜けるものはチカの言葉と気配だけで、それから逃れるための刺激はほとんど何もない。

 そうした無防備な状態で直感する──彼女が今話そうとしているのは、互いを血だらけにする話題だ。


「せっかくだから、僕は君と楽しい話だけをしてたいよ」

「一つ」チカは言葉を被せるように切り出した。「私は君に償わなきゃいけないことがあるね」


 チカは時折こうして有無を言わせぬ張り詰めた空気を作り出す。彼女の中にはどれだけ心を通わせても決して理解することのできない底知れぬ部分がある。それが表出する時、凪はまるで蜷局とぐろを巻いた大きな蛇に見据えられているような気持ちになる。


「私は凪くんに首輪をつけた。君がどこにもいけないように」


 その首輪をつけるときも、彼女は今日と同じ目をしていた。


「凪くんはもう私がいないと大人になれない。でも私が先にいなくなっちゃった。だから、君の時間はずっとあの日から止まったまま」


 彼女の言うとおりだ。


 チカを失った自分は大人になれない呪いをかけられたようだった。自分の中で溶け合っているドロドロな感情の中には、チカに掻き回され、醜悪さを見せつけられ、それを彼女に受け入れてもらうことでしか整理できない部分がある。


 しかし、もし望めたなら、

 本当は、彼女と二人でずっと子供のまま生きていたいと願っていた。


 無垢な心で無邪気に思い描く、理想の恋人を演じるだけならいくらでもしようと思った。でも、現実の臭いを纏った男と女にはなりたくなかった。

 どうでもいい人に対してならいくらでも残酷に振る舞える。でも彼女は、ずっと昔から大切な人だった。


「今日はまた凪くんの時間を進めるための話をしよう。もしも私が生きていたら、するはずだった話をしよう。次の朝日が昇るまで」


 チカの中にも同じ気持ちがあることは知っている。にもかかわらず、彼女は何故か、ネバーランドに留まることを許してくれなかった。


     *


 古民家の壁には遮音性がない。二人の会話は外に筒抜けだ。

 これからする話は誰にも聞かれたくない。凪とチカは本当のふたりきりになるために、できるだけ音を立てずに靴を履いて、まだ真っ暗な屋外へ出た。


 空を見上げて、びっくりした。


 星がとてもはっきり見える。視力がどうとかいう話ではない。星屑の描き出す像が、その詳細までこの胸に届いて感動を湧き上がらせている。頭を覆っていたぬるい薄靄が晴れて、鮮やかな光が意識の表面まで降り注いでいる。


 本当に星を見ている、という実感があった。


 その強烈な感覚は懐かしさを伴っている──かつて僕は、こんなふうに星を見ていたんだ。


「……チカ。僕は君がいなくなってから今までずっと、本当には何にも感動できなくなっていたし、何をしても嘘みたいだった。でも、今この星空を見て思ったんだ──」


 涙が溢れて止まらない。ここが暗闇で良かった。


「君と一緒に心までこの胸に帰ってきたみたいだよ」


 彼女がいない世界はひたすら虚ろで、現実感がなくて、醒めない夢の中のようだった。現実からつまみ出されて、どこでもない場所にぽつんと置かれているようだった。

 チカがいないと、この心は何も現実感を伴って感じることができない。だから自分にとってチカがいない世界は、本当には存在していない。

 生きるということは、チカと生きるということと同じ意味だ。彼女がいない世界をしばらく経験してそれに気づいた。


「もう僕はずっと君のそばを離れない。ずっと君と生きるよ」


 隣りに立つ真っ黒なチカの影が笑い声をこぼす。


「凪くんは結構恥ずかしいことを平気で言うよね。なんだかプロポーズみたい」


 プロポーズ──恋愛的な含みのある言葉で彼女への気持ちが形容されることにはまだ違和感がある。しかしもう、そんなことはどうでもいい。


「別にそう思ってくれても構わないよ」


 この関係が客観的にどう解釈されるかなんて興味がない。だから、チカの好きに決めてほしい。


「機械と人間は結婚できませんよ。そもそもまだ結婚できる年齢でもなかったね」


 チカの表情は暗くて分からない。冗談を言うような口調だったから、冗談を言うときの顔をしているのだと思う。


 気づけば玄関の前で話し込んでいた。せっかく外に出たのに、ここにいては話し声が家の中まで聞こえてしまうだろう。

 凪はチカの手を取って月明かりを頼りに歩き出した。目的地はない。ただ家から距離をとるだけだ。


「ああでも」チカが思い出したように口を開く。「私たち一回だけ二人でウエディングアイルを歩いたことがあるんだよ。覚えてる?」


 そんなことあっただろうか?──凪は歩きながら、少し焦りつつチカとの思い出を振り返る。

 まずい。全く思い出せない。内容から察するに、その思い出は二人にとってかなり大切なものだろう。適当に取り繕ってこの場をやり過ごそうにも、彼女に覚えているふりなんて通用しない。こんな抜き打ちテストがいきなり行われるなんて思ってもみなかった。

 許してくれ──凪は熟慮の末、白紙の回答を提出する覚悟を決めた。


「……ごめん、覚えてない」

「私の叔母さんの結婚式。私はフラワーガールで、君はリングボーイ」


 答えが明かされ、微かに記憶が蘇る。


「……あー、思い出してきた」


 かなり幼い頃の話だ。もしかすると小学校に上がる前だったかもしれない。これは忘れていても無罪だろう。


「あの頃はさすがに恋愛感情なんて分からなかった。それでもあの日は、幼かった私の乙女心もちょっと特別な気持ちになったりしてたんだ」


 その話を聞き、改めて思う。彼女の情緒にはかなり早熟な所がある。自分なんて、あのときは恐らく何をしているのかもあまり理解しないまま彼女の隣を歩いていたはずだ。


 チカが年齢に比べて大人びたところがあるのは今も変わらない。何もかもお見通しのような深い洞察が受け答えに垣間見えるとき強くそう感じる。なまじ仕草が幼い分、そんな瞬間に不気味さを感じてどきっとしてしまう。

 彼女が一度死んでから今の形で目覚めるまでには恐らく時間的な空白がある。その分こちらのほうが歳をとっているはずだが、精神的に彼女が年下という感じはしない。それどころかまだ時折、彼女が数段高い位置からこちらの心を全て見通して話していると感じることすらある。


 彼女は言葉を続ける。


「あの日の思い出は私の宝物。写真もわざわざアルバムにしまってある。君を好きだと認めてからは、その写真を何度も見返すようになった」


 好き──その言葉が意識に投げ入れられ、波紋が広がる。


 今は彼女が生きていたらするはずだった話をする時間だ。こんな時が訪れるなんて夢にも思わなかった。でももしもう一度彼女と会えたらなら、したいと思っていた質問があった。


「チカ、僕にはもうあの頃と違って変な意地も恐れもない。だから素直に訊くよ」


 暗い夜の森に、二人の足音と月と星屑、そして繋いだ手から伝わる彼女の体温だけがある。


「『好き』って、何かな」

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