39

 都心の駅は早朝でも人が多く、凪はマナが改札の人波に流されないように手を引いて移動した。プラットホームまで来たところで、ようやく人が少しまばらになった。


「うわ」マナがいきなり声を上げる。


 凪は彼女の視線の先を見た。何者かの吐物が派手にぶちまけられている。


 絶対に踏みたくない──思わずマナと顔を見合わせ、つま先立ちでそれを避けながらホームの中程に移動する。


 そうしているうちにベンチを見つけた。マナを腰掛けさせ、その隣に座る。

 一息ついて顔を上げた。目の前に広がるビル街が朝焼けに塗られている。夜と昼の光が溶け合った紫色の中で、街は、まだ微睡んでいるように見えた。

 汚いだけだと思っていたこの場所にも、こういう瞬間があるのか──景色に紐付いた様々な記憶が頭の中で反芻される。辛かったはずの出来事までもが、なぜかこのときは、手放し難い愛着を伴って思い返された。


 感傷的になっている場合ではない──気を取り直し、尾行を警戒して辺りを見回す。


 周囲の人の顔を、一人ひとり記憶していく。すぐ近くで酒臭い大学生風の男がベンチに腰掛けて顔を伏しており、その後ろの自動販売機でスーツ姿の男が栄養ドリンクを購入している。そんな景色から数歩離れた場所で、女子高生の二人組がお菓子を食べさせあっている。


 しゃがみこんだ小さな男の子の髪を、同い年ぐらいの女の子がわしゃわしゃと弄んでいる。すぐ近くで、若い男女が人目も憚らずに抱き合ってキスをしている。それを気にすることもなく、ベビーカーに手を添えた女と、子供を肩車する男が穏やかな視線を送り合いながら会話している。


 もう一度女子高生の二人組を見ると、彼女たちは手を繋いで朝の光に照らされたビル街を眺めていた。


 ふと、彼女たちの見渡す街から音楽が流れてきた。新曲の広告だろうか。サビから再生されたその曲の中で、男性ボーカルが『君が好き』というフレーズを繰り返している。


 取り巻く景色と音楽の中で、凪はあることを思い出した。


──そういえば、チカにもう一度会うことができたら、訊こうと思っていたことがあったんだ。


 マナを横目に見る。

 さらさらとしたアイボリーの髪が、薄桃色の差した透明な印象の頬にかかっている。視線は下の方を向いていて、長いまつ毛が潤滑剤に濡れたガラス玉の瞳を隠している。

 彼女が目を細めて見つめる視線の先で、季節外れのブーツがぴょこぴょこと動いていた。


「ねぇ、マナ」


 凪は視線を床に落として、彼女の顔を見ずに切り出した。


「なに?」


 響きに丸みを帯びたその声は、やっぱりチカにそっくりだ。

 自問する──こんなごっこ遊びみたいなことをして、一体どんな意味があるのだろう。

 とはいえ、今更言葉を引っ込める気も起きない。


「『好き』って、何かな」


 本物のチカがいたときに、結局それが訊けなかった。自分が嘘をついていることを言葉の上でも認めてしまうことになるから。だから、チカがその言葉にどういう意味を込めていたのか、結局最後まで分からなかった。

 本当は、彼女が自分に向けてくれた感情を理解して、自分も彼女にそれを向けてあげたかったのに。


〈まもなく二番線に渋谷・新宿方面行がまいります──〉


 電車到着のアナウンスが流れる。

 マナは黙ったままだ。どんな表情をしているのか気になるが、今は、その顔を見る気になれない。


 車両が近づいてくる。段々と、その音が大きくなっていく。もういつもの声で話されても聞き取れないだろう。このまま何も返答がなく、この会話自体無かったことにされるのだろうか。

 そう思った所で、彼女の吐息が耳にかかった。


「分からなくてもいいよ」

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