37

 シャワーを終えたあとも、凪は館内着を利用する気が起きなかった。何か起きたときにすぐ出られるようになっていないと落ち着かなかったからだ。

 仕方なく、元々着ていた服にもう一度袖を通す。汗を流した肌に汚れたシャツが触れる。もうそれを気持ち悪いと感じる余裕すらない。


 部屋に戻ると、ベッドに寝転がっていたマナがこちらに気づき、体を起こした。


「おかえり。ちょっとは楽になった?」

「うん、もう全然平気」

「着替えなかったんだ」

「こっちのほうが落ち着くから」


 そこまで話して、部屋に設置された小さな冷蔵庫が目が留まる。

 沢山汗をかいたのにしばらく何も飲んでいない。喉がカラカラだ。フリードリンクがあることを期待し、それを開ける。

 中には二本のミネラルウォーターが入っていた。当たりだ。そのうちの一つを取り出してキャップを外し、口に含む。乾いた体に冷たい水が染み渡り、煮えていた頭が冴える。どんな状況でも水はうまいらしい。


 ふと、マナがこちらを見ていることに気づいた。


「飲む? もう一本あるけど」彼女も暑い日は水が飲みたくなるのだろうか。

「ううん、私はいい。トイレいきたくなっちゃうし」

「ふうん。じっと見てたから欲しいのかなと思った」

「いや、なんかちょっと、かっこよかったから……」


 彼女は取り繕うように目を逸らした。照れながら話されるとこっちまで恥ずかしくなってしまう。


「ふうん」少しぶっきらぼうに返事をしてしまったことが自分でも分かった。


 意外にも、ミネラルウォーターの全てを一度に飲み切ることはできなかった。三分の一ほど中身が残ったそれを枕元の台に置き、ベッドに腰掛ける。


 しばらく会話の無い時間が流れた。


 適温に保たれた部屋に、冷房の音だけが小さく響いている。ランダムな刺激が失われた空間に、彼女の気配だけがぼつんとあった。まるで世界からこの場所だけが切り取られて、本当の二人きりになったみたいだ。


 ベッドの上に座るマナは少しの間こちらの様子を気にしていたが、やがて背を向けて寝転がった。


「もう眠い? 電気消そうか」横たわるマナに視線を送る。

「……うん、ありがとう」彼女はこちらを見ずに小さく言った。


 枕元のパネルを操作する。ホワイトの照明が消え、淡いオレンジの光だけが部屋を照らす。

 凪も横になり、仰向けの状態で少し背伸びをした。背中の筋が伸びるのを気が済むまで堪能し、マナに背を向けて少し体を丸める。


 薄暗さの中でマナの気配だけが感覚される。


 彼女は今何を考えているんだろう? そう思った直後、後ろで寝ているマナが不意にぽつりと話し始めた。


「凪くんは、優しいよね」

「え?」

「私が抱きしめてほしい時とか頭を撫でてほしい時、何も言わなくてもそうしてくれるから。彼氏でもないのに」


 少し焦る。出会った当初は歳の差のため親戚の子供をあやすような気持ちでうっかりやってしまっていたし、今日のあれこれに関しては言い訳のしようもない。


「ごめん。嫌だったよね。もうしない」

「嫌じゃない。嬉しかった」


 一体何を話したいんだろう──真意を掴みかねて、何も言えずに黙ってしまう。

 彼女は薄暗い部屋で言葉を続ける。


「触られて気持ち悪くない男の人なんて、凪くんだけだよ」


 どうしてわざわざ、彼女はそんなことを言うんだろう。

 彼女は薄暗い部屋で言葉を続ける。


「でもね……」彼女は少し躊躇うような間を挟んだ。「やっぱりやめてほしい」


 この展開は予想していなかった。動揺が自分の顔に出ているのが分かる。背中合わせでの会話で助かった。


「……どうして?」

「私だって、誰が使ったか分からないコップみたいなものだよ」マナの口調は淡々としていた。「凪くんだって内心、私のことが汚いって思ってるんでしょ。無理して触らなくてもいいよ」


 サッと血の気が引く。

 何気なく口にした言葉が彼女を傷つけていたことを、この時ようやく認識した。


「……そんなこと、思ってない」


 そう伝えるも、彼女は卑屈な態度を崩さない。


「気を遣わなくていいよ。代謝もしないこの体で、私は沢山の男の人のドロドロした汚れを受け止めてきた。公衆トイレと変わらないって自分でも思うよ」


「……黙れよ」


 自分の大切な人と存在を重ね合わせている彼女の口から、そんな事を語られたくない──そう思って制止するも、マナはこちらの言葉が聞こえていないかのように滔々とうとうと語り続ける。


「この口におじさんの死ぬほど汚い場所を無理やりねじ込まれて、顔中にその臭いが広がるのを何度も味わった。吐きそうになるのを必死で堪えて、生暖かいドロドロを何度も飲み込んだ。大切な人ができたって、もう絶対キスなんかできない」


「黙れって」


 まるで拷問だ。やり場のない怒りが吐き気を伴って湧いてくる。彼女がどういうつもりでこんな事を話し続けているのか分からない。嫌がらせか? 慰めてほしいのか?


「毛がいっぱい生えたお尻の穴だって舐めたよ」

「黙れよ!」


 自分の怒鳴り声が部屋の四隅に反響した。

 マナの話がやっと止まったことに少しだけほっとする。これ以上は、耐えられない。


「……そんな話をして、僕にどうしてほしいの?」


 同情が欲しくて言っているような口調では無かったから、余計に彼女の気持ちが分からなかった。

 体を起こしてマナの方を見る。彼女は背を向けて寝転がったままちこちらを一瞥し、すぐ視線を元に戻した。


「私、凪くんのことが大切だよ」彼女は淡々と言った。「今日、本当にすごくうれしかった。凪くんと一つになれた気がした。全身がぞわぞわして、君以外のことなんてどうでもいいって気持ちになった。でも、なんか冷めちゃった」


 拒絶の色合いを帯びた声に胸がぎゅっと締め付けられる。ようやく掴んだ彼女の心が、手のひらから零れ落ちていく。


「排水口に水を捨てながら、思ったんだ。私もこれと同じだって。君に優しくされて舞い上がっちゃって、自分がどれだけ汚くて無価値なものか忘れてた。そもそも君に優しくしてもらう価値なんて私にはなかったのに。だからね──」


 紡がれる自傷にも似た幾つもの言葉のあと、嫌な間が置かれた。躊躇い、決意、諦め──そんなものが混ざりあった、短い沈黙。

 区切りをつけるような息継ぎのあとで、彼女は続ける。


「──君がそこまで大切にするほどの価値が私にあるか、ちゃんと今考えてほしい」


 バカにしてる、と思った。


 彼女はもう、自身が貶められる痛みに無感覚になっているのかもしれない。彼女を大切に思い、彼女の価値を毀損する言葉に胸を痛める他者が存在することなんて、想像すらできないのかもしれない。


 だとしても──もう、彼女の振る舞いが、許せない。


 背を向けているマナの肩に手をかける。彼女はビクッと体を震わせ、さっとこちらに顔を向けた。部屋は薄暗いが、驚いて目を見開いた事は分かった。


「ちょっやめて! 本当に!」


 抵抗するマナを抑えつける。めちゃくちゃに振り回される彼女の手が頬を引っ掻く。

 はなから彼女を自分のエゴのために使っている自覚はあった。彼女の拒絶は、今更これからすることを止める理由にならない。


「安い同情で優しくしないで! もう私に触らないで! 私は凪くんに汚れてほしくないの!」


 マナの言葉に、一瞬手が止まる。彼女が恐れている痛みは、今自分が感じている痛みと同じものだと気づいたからだ。

 でも──


「これは優しさじゃないよ」


 これから自分がしようとする行為の残酷さに胸が締め付けられる。それでも彼女に言わなければいけない。それが、自分と彼女の繋がり方だから。


「君は、汚いね」自身の目から零れた水滴がポロポロと彼女の頬に落ちる。「君の言う通り、その口は公衆トイレの便器と変わらないよ。その肌にだって、君を抱いた沢山の男の汗が染み込んでる。触るのも嫌だ。キスなんて吐き気がする」


 嘘の通じない彼女に嘘を言っても仕方がない。だから、本当のことを言った。

 彼女の顔が悔しそうに歪む。その感情が、痛いほどに流れ込んでくる。


「僕は君の一番近くで、同じ痛みを感じていたい」


 眉をひそめたまま沈黙する、誰かに似た少女。その瞳の奥にあるのは、本物の憎しみだ。

 マナはやがて冷たい笑いをこちらに向け、言った。


「凪くんが望むなら、いくらでも分けてあげるよ。この悔しさと、虚しさを」


 氷水のような声。まるで何もかもを諦め、絶望の底で開き直っているような。

 それに心臓が冷やされていくのを感じながら、想いが伝わったことを確信する。


──僕は君の痛みを感じて、君は僕の痛みを感じる。


 彼女の頬を親指の腹でなぞる。自分が落とした涙で、涙を流せない彼女の目元が濡れていたからだ。


「一緒にボロボロになって、いっぱい泣いて、また一緒に笑おう」


 最後に笑顔を交わすその時だけ、自分と彼女はこの世界の苦しみから切り離されて、無垢になれる。

 男でいなくてもいい。女でいなくてもいい。大人にならなくてもいい。

 怪物のいない、心を溶け合わせた二人だけのネバーランド。


 彼女は、もう抵抗しない。その華奢な手が、頬にできた新しい引っ掻き傷を優しくなぞってくる。


「目を瞑って」


     *


 もうどうしたって彼女の心は離れない。そんな確信があった。

 今更何を隠すこともない──そう思い、凪はマナにチカの存在を打ち明けることにした。


 横たわり、彼女の頭を胸に抱いたまま、語りかける。


「君とよく似た人を、過去に失ったんだ。その日から、目が覚めていても、まるでずっと夢の中にいるように頭が霞がかってた。自分が生きてるのか死んでるのかも、あまりよく分からなかった」


 彼女はこちらに身体を預け、何も言わずに話を聞いている。


「でも僕の前に君が現れた。君と話しているときだけは、頭の霞が消えて、起きている感じがする。自分が生きているってちゃんと分かる。僕が『君以外のことはどうでもいい』っていうのは、そういう意味だよ」


 彼女が腕の中でクスクスと震える。


「はは。結局君のエゴのために、私はその人の代わりをさせられて、晴香ちゃんは泣いてるんだね」


「そうだよ。僕が君を大切にするのは、君のためじゃない」


 彼女はこちらの肩にしがみつくように指先を動かして、


「本当にクズだよね……でも、それでもいいよ」と、囁くように言った。


 しばらくそのまま体温を重ね合わせ、ゆっくりと存在が溶け合うような気分に身を委ねながら、薄明かりの下で空調の音を聞いていた。


「ねぇ、凪くん。私、行ってみたいところがあるんだ」マナが穏やかな声でぽつりと呟く。

「ん?」

「ずっと、凪くんにも晴香ちゃんにも秘密にしてた。でも、もうどうでもいい。凪くんにだったら、話してもいいと思って」


 凪は密かな嬉しさを感じながら、彼女の秘密が打ち明けられるのを待った。


「私と同じ存在が寄り集まって隠れ住んでる場所を知ってる。そこに、私を連れていって」

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