33

 朝、晴香はトランクルームにまた一つ荷物を移動した。リュックサックに入れて運んだそれは、想像よりも重くなかった。


 帰宅し、手を洗ってリビングの椅子に腰掛ける。


 部屋が無音であることに違和感を覚えた。この部屋は完全防音だから、もともと音なんてしなかったはずなのに。そういえば今日は一度も時計を見ていなかった。手首の端末に表示された時刻を確認する。一二時過ぎだ。いつもならお腹が空いている時間なのに、今日は全くそんな感覚がない。空腹感だけではなく、色々な感覚がニュートラルになってしまって自分の状態がよく分からない。自分が今どんな気持ちでいるのかも、あまりよく分からない。人間はものを食べないと死んでしまう。べつにそれでもいいけれど、今日までなんとなしに続いてきたこの日常が途切れてしまうのは、なんとなく怖い。昨日のカレーの残りがあっただろうかと考え、すぐにそれを三人できっちり食べきってしまったことを思い出す。もう彼女はいないから、温かいご飯を二人で作って食べることもない。


 デスクの脇へ追いやられていた完全食の缶を開け、少し粘性のある液体を胃に流し込む。


 口に付いた液体を手で拭いながら思い出す。そういえば、今日この家から運び出した荷物のことをまだ凪に伝えていない。彼はそれを目当てにこの家を訪れるのだから、処分したことを伝えておかないと困るだろう。手首の携帯端末で彼にメッセージを送る。大切な話があるから家に来てほしい。


 そこまでのことを終えて、本当に何もすることがなくなってしまった。

 寝てもいいけど、寝室に行くのもおっくうだ。


 こんなに何もしない時間は久しぶりだ。彼が来るまでの間、この椅子の上で、少しだけ久々の自由を感じていよう。


     *


「何、大切な話って。あれ、マナは?」


 リビングに入るなり、凪はマナの事を気にしだす。予想通りの行動に、晴香は少し笑ってしまった。彼の顔を見た時の気持ちは今まで通りだ。あまりにも頭の中が静かすぎて心配になっていたが、心が無くなってしまったわけではないらしい。


 いっそ彼を見ても何も感じないようになっていたらよかったのに。


「……いないよ。眠らせて引き渡しの場所に置いてきた」


 自分でも驚くほど事務的な声が出た。とても大切な友達への裏切りを告白する口調には思えない。自分でそう感じるぐらいなのだから、彼にはより一層淡白に聞こえていることだろう。


「……え? どういうこと? 引き渡しって、誰に?」

「マナの開発元。バレた。もう全部終わり」

「冗談だよね?」

「こんな趣味悪い冗談言うわけないでしょ。脅迫の電話があったの。言う通りにしないとあんたの身の安全が保証できなくなる」


 彼は目を見開いたまま固まってしまった。この反応も予想通り。それでも実際にそんな顔をされると、やっぱり、胸の奥が嫌な感じに張り詰める。心が彼の怒りに、身構える。


「マナと、あんたを含むあたしの身の回りの人たちのどっちを生かすか選ばないといけなくなった。あたしはあんたを失いたくなかった」


 まるで自分の口ではないかのように、すらすらと言葉が出てくる。

 少し前まで渦巻いていたマナへの感情はすっかり凪いでしまった。彼女を引き渡し場所のトランクルームに置いて扉を閉めた後から、それまで強くあった罪悪感が嘘のように消えた。感情が振り切れたのかもしれないし、そもそも自分はこういう場面で簡単に開き直れる冷たい人間だったのかもしれない。


「そんな……嘘だろ……? 彼女を見捨てるぐらいなら死んだほうがマシだ」

「そう言うだろうと思った。でもあたしには、あんたを失う選択なんてできない」


 自分の言葉の白々しさに自己嫌悪を感じた。厄介なことに、彼に対して誠実でいたいという心はまだ残っているようだ。

 昨晩、マナが何者であるかを知った。でもそれを凪には教えない。この後に及んで、自分はまだ彼に嫌われたくないのだ。自分がここまで醜く振る舞えるとは知らなかった。はじめまして、あたしのなかの怪物。

 本当は分かっている。こんなの悪あがきだ。もうどうしたって、彼の心は完全に離れてしまうだろう。今更自分を綺麗に見せようと繕っても仕方がない。


 せっかくだから、これまで話せなかった汚い本音を、本当のお願いを今ここで聞いてもらおう。


 椅子から立ち上がって、今一度彼の目を見る。こちらに苛立ちを向ける彼の表情は、それでもやっぱり綺麗だった。それに無表情と比べたら、こっちの顔のほうが、怖くない。

 多分最後の話になるから、もう少しその顔をよく見たい──そう思って、彼の近くまで歩み寄る。


「凪、もう全部諦めよう。もう疲れた……何もかも全部忘れて、音も電波も光も届かないこの場所で、ただずっと、静かに二人で寄り添っていたい」


 そう言われることが彼にとってどれだけ残酷なことなのかは正直分からない、自分は彼とは違う人間だから。

 でも、彼が抱える喪失と向き合う覚悟はある。それを埋めるためならどう扱われようと構わない。誰かの代わりにだってなろう。どれだけ自分がズルくても、この覚悟だけは嘘にしない。


 そんな想いを伝えたくて、凪の手をとった。そしてそのまま、彼の肩に頭を預ける。


「……あたしが凪と一緒に大人になってあげる。ううん、それが痛みを伴うなら、ずっと一緒に子供のままでいてもいい。あんたを、独りにはしない」


 彼がさなぎのまま腐っていくことを望むとしても、愛してその傍らに居続けたい。

 初めて彼と手を繋いだ。本当はもっとロマンチックな場面で、ドキドキしながらこの手に触れたかった。この手を、握り返してほしかった。

 彼は繋いだ手を握り返さない。預けた体重を支えるだけで、黙ったまま動かない。マネキンに寄りかかっているみたいだ。その態度に、彼の次の言葉がなんとなく分かってしまった。


 これまで維持していた曖昧な時間が終わってしまうまで、あと数秒──


「君はチカの代わりにならないよ」


 頭を預けた彼の肩越し、開きっぱなしのドアの隙間から、薄暗い玄関が見えていた。

 頭が熱くぼやけてくる。目元に温かいものが滲み出す。まずいと思って堪らえようにも、それはせき止めようもなく溢れ出してくる。

 もう彼の手を離さないといけない。でも、一度離したら、もう二度とこの手を握ることはできない。


「いつだったか晴香は『マナを人間として認めるかどうかは保留する』って言ってたよね」


 彼は突然耳元で話し始めた。


「結局君にとって、マナはただの機械だったってことか」


 何を言われているのか分からず、何度かその言葉を頭の中で反芻する。ようやくその意味を理解した時、怒りよりも先に驚きが起こった。彼の口からそんな無神経な言葉が出てくるなんて思いもしなかった。


「……あんた、それ本気で言ってんの?」


 少し鈍感で冷たいところのある人間だとは思っていたが、こういう場面で追い打ちをかけてくるほどのクズとは思っていなかった。一体誰のために、どんな思いでマナを差し出したと思っているのだろう。


「今ほどあんたにムカついたことなかったわ……あたしはマナを人として認めた上であんたを選んだの! これがどんだけ辛いことか分かる!?」


 人として、なんて控えめな言い方だ。


 絶対に守りたかった大切な友達を差し出した。彼のために胸が潰れる思いでそうしたのに、それを全然分かってくれない。それが悔しくて苦しくて、これまでで一番強く凪に怒鳴った。


 ひとしきり声を張り上げて少し冷静になり、ふとどこか冷めた目で自分自身を見つめる。


──図星を突かれてヒステリックに怒鳴り散らしているだけじゃないの?


 マナを人として認めなければ、誰も見捨てたことにはならない。そういう理屈にすがろうとしたことが、少しも無いと言えるだろうか? マナへの罪悪感や喪失感が完全に凪いでしまったのは、心の何処かでそう自分を納得させて、開き直っているからではないか?


 雨に降られながら聞いた仇敵の言葉がよぎる──君が思うほど、私と君の間の距離は遠くないさ。

 いくら振り払っても、その言葉は頭にこびりついて離れない。


 胸が苦しい。どれだけ息を吸っても苦しさは増していく。


 自分自身が追い打ちをかけるように語りかけてくる。見たくない自分の姿を、わざわざ教えてくる。


──凪からマナを取り上げる口実ができて、本当は嬉しいくせに。


 水の底に落ちていく感覚。

 息ができない。窒息しそうだ。


 助けて。この決断が間違ってないと言って。

 誰でもいいから、この水底から引き上げて。



 気がつけば、縋るように彼の手を強く握りしめていた。


「……どうでもいいよ」


 繋いだ手が、強引に振りほどかれる。


「……嫌……嫌……」


 彼と過ごしたこれまでの日々の記憶が蘇る。

 彼を好きだと認めて、世界の色が鮮やかさを取り戻した日のことを思い出す。


「……ごめんっ! ごめんね凪! お願いだから……あたしを嫌わないで!」


 彼の腕を掴むが、強い力で振りほどかれる。何度彼の服にすがり付いても、そのたびに引き剥がされる。


「離せよ。鬱陶うっとうしい」

「嫌! 嫌あぁ!!」


 振りほどく凪の手に突き飛ばされるようになり、バランスを崩して床に倒れ込む。

 冷たい床に体が打ち付けられる。倒れ込んだのは、よく彼とマナが座っていたソファーの前だった。


 もう、ここに座るふたりと話すことはない。


「そんなことより、今すぐマナの居場所を教えて。彼女を助けにいく。もうここには来ない」


 彼はこちらに目も合わせずに、淡々とそう言った。


 嫌われた。


 大事な友達を裏切っても守りたかった、一番好きな人。

 昔からそうだ。大切なものは、そのうちみんな離れてどこかに行ってしまう。


 もう疲れた。何もかも。


     *


 夕立が通り過ぎ、屋外に規則正しく配置されたコンテナがキラキラと日差しを照り返す。

 凪は水たまりから撥ねた水に裾を濡らしながら、脇目も振らずマナの置かれたトランクルームを目指した。

 幾つもの同じような景色の繰り返しを通り過ぎ、目的のコンテナ前に辿り着く。震える手でドア横のパネルを強引に開き、急いで晴香から聞き出した暗証番号を入力する。

 コツンと鍵が開く音が響いた。晴香は嘘をついていなかったようだ。


 扉をあけ、中を確認する。


 室内は真っ暗で、開けた扉から入る光のみでは中の様子がよく分からない。ポケットから携帯端末を取り出し、震える手先で不器用にライトを点け、中に入る。

 あちこちを照らすが、マナの姿は見えない。目に入るのは、季節外れの靴や埃被った家具、何が入っているのか分からないダンボールなどばかりだ。

 手遅れ──最悪の想像が脳裏を掠める。慌てて奥へ進み、何かを蹴飛ばした感覚で足元にある物の存在に気づく。


 油絵だ。


 一枚ではない。かなりの量のキャンバスが床に散らばっている。達者な白黒の下絵に、不器用で控えめな着色が施されたものばかりだ。まるで正しい色が分からず、間違いを恐れながら塗っているような。

 その中で、蹴飛ばした足元の絵だけが鮮やかに彩られていた。どこかの風景画のようだ。


 見覚えがあるような気がして記憶を辿ろうとした所で、何者かが背後から凪の肩を叩いた。

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