第三章

#11 「ふたりぼっちのネバーランド」

34

 薄暗いトランクルームの中で、凪は背後から何者かに肩を叩かれた。


 じわりと嫌な汗が滲む──マナを回収しに来た誰かか?


 背後にある人の気配に体が硬直し、視界が汚れた床に固定される。薄暗い静かな室内で、蝉の声と心音だけがやけに大きく聞こえる。頬から顎へ汗が伝い、コンクリートの床に零れ落ちて染みをつくった。


「……凪くん?」


 聞き覚えのある声に振り返る。

 白のフレアスカートとブラウス、そしてアイボリーの髪──そこには探していた少女が佇んでいた。


「──マナ!? どうして動けるの?」

「どうしてって……え? なんでそんなこと聞くの?」


 晴香がマナを逃がすために遠隔で起動処理をしたのだろうか。今更そんなことをされても許す気にはなれない。

 マナの表情に緊張の色はない。現状を理解していないのか? 自身の抱く危機感との温度差に、その表情がとぼけたように見えた。空回る焦りが苛立ちに変わる。


「……えっ?」彼女がビクリと震えた。


 その反応で、気分が顔に出てしまっていることに気づいた。少し反省し、意識して眉間の緊張を解く。


「とにかく、ここを出よう」焦る心に蓋をし、いつものトーンを心がけて話す。


 外の様子を確かめようと、マナの横を通り扉へ近づく。彼女は体を強張らせ、たじろぐように体を引いた。


 そっと扉から顔を出して周囲を確認する。見渡す限りには誰もいない。


 ちらりとマナの方を向く。彼女はまだ少し怪訝けげんな表情でこちらを見ている。

 やってしまった──情けなさがこみ上げる。彼女にはただ笑っていてほしいのに。あらゆる苦しみから遠ざけておきたいのに。自分自身が彼女の恐怖の対象になるなんて、絶対に嫌なのに。

 とにかく一度仕切り直そう──凪は一度深呼吸した。


「びっくりさせてごめん。でも今事情を説明してる暇は無いんだ」


 無理やり笑顔を作っていつもの調子で語りかけると、彼女は少しだけその目元の緊張を解いた。


 改めてマナの顔を見つめ、思う──彼女が大切だ。


 あの日の記憶が蘇る。暗い埠頭の倉庫。月明かりに照らされた青い肌。頬を撫でる、彼女の体温。

 これ以上、誰にも傷つけさせはしない。


「僕と来て。マナ」ゆっくりと、手を差し出す。


 マナはまだ少し表情を強張らせていたが、目を合わせたままこくりと頷き、手を取った。


     *


 マナをトランクルームから連れ出したはいいものの、どこに逃げるかはまだ決めていない。

 周辺は全く知らない土地だ。凪は自動運転のタクシーを捕まえてマナと二人で乗り込み、最終的な行き先も思いつかないまま、一先ひとまず土地勘のある方向へ進むよう指示した。


 二人だけの車内に沈黙が流れる。耳に入るのは隣の車線をすれ違う車の走行音だけだ。


「……あの、凪くん」右隣に座るマナが控えめな声で話しかけてきた。


 ドライブレコーダーに会話を記録されたくない。凪は人差し指を口の前に立てた。マナは目に不安を宿らせたまま小さく頷いて、そのまま視線を前に戻す。

 会話できない状況が歯がゆい。彼女を不安にさせたままにしたくはないが、今はこうするしかない。


 気を取り直し、次の行き先に考えを巡らせる。


 どこかに身を隠したいが、できる限り電子的な証跡を残したくない。身分証明が不要で、公共の街頭カメラに姿を記録せず入れる場所が理想だ。ネットカフェなどはできれば利用したくない。


 ふともう一度マナの方を見る。


 夕日に縁取られた彼女の横顔。その背景を寂れた景色が流れていく。見覚えのある無人フロントのホテルが、目の前を通り過ぎる。


──これだ。


 あそこで身分を確認された覚えはない。おまけに車を通行人の死角となる入口につければ、人目につかぬよう中に入ることもできる。


「すみません。一度戻って、その建物の入口に車をつけてください」


 自動運転AIの対話インターフェースに指示する。車はUターンして対向車線に入り、そのままホテル入口の前で停車した。

 ドアが自動的に開く。一度車内で周囲を軽く確認し、夏の熱気を肌に感じながら外へ出る。

 車を降りるマナの手を引く。そのまま肩を抱くようにして彼女を自身の体の影に隠しながら、素早く通行人の死角となるフェンスの裏へ隠れる。


 胸に抱いた彼女の髪から微かに晴香の匂いがすることに気づき、思う──チェックインしたらシャワーを浴びさせよう。


 背後から、車のドアが閉じて走り出す音。それを聞きながら、凪とマナはホテルの自動ドアをくぐった。

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