32

 雲の少ない、星がよく見える夜だった。自然公園沿いの道に並ぶ樹木を等間隔に置かれたライトが照らしている。晴香はそれを見やりながら気もそぞろな状態で、隣を歩く凪の話を聞いていた。


 君の全ての周辺人物は人質になり得ると考えてほしい──昼間の脅迫電話のやりとりが頭の中をぐるぐると回る。


 こんなことは考えたくもないが、現状に対応する選択肢の一つとして、マナを見捨てることも視野に入れる必要が出てきた。もちろんまだそうすると決めたわけではない。だが、無視できない選択肢でもある。

 個人的な感情は一旦隅に置いておくとして、仮にマナを見捨てる場合、一番心配なのは凪の心情だ。それを確認するため、凪を夕食に招いた。今はそれを終え、彼を最寄り駅まで送っているところだ。


「いやぁおいしかった。ありがとね、誘ってくれて」


 隣を歩く凪の言葉を聞き、上の空だった意識が彼に向いた。

 顔を見る。いかにもカレーをたらふく食いましたといった感じの満足げな表情だ。人の気も知らないで。


「……お礼はいいよ。二人分の夕食準備するのって結構難しくていつも余っちゃうから。むしろ食べてくれて助かる」


 適当な理由をつけて夕食に呼んだ理由を取り繕う。カレーなんていくら余らせても困らない。どうせ夜食や次の日の朝食で食べきってしまう。


「そういえば君とマナ、随分仲良くなってたんだね。なんか笑っちゃった」


 それはこっちの台詞だ──心の中で思わずツッコむ。


 もともと彼のマナに対する接し方には不気味な瞬間が多かったが、今日の二人のやりとりにはそれにも増して違和感があった。二人が自然に取り合う距離感が、互いの間に何もない男女のそれではないように感じたのだ。恋仲になりかけの探り合う感じとも違う。まるでそんな時間はすでに通り越して、深い場所で繋がり合っているような。


「……ねぇ凪、この間の埠頭でさ、マナとなんかあった?」

「えぇ〜。そりゃなんかあったなんてもんじゃないよ」


 凪は何を今更とでも言うように笑う。そんな軽さで答えられる質問をしているつもりはない。会話が噛み合っていなさそうだ。


 まるで恋のライバルとの関係に探りを入れているような気分だ。でも別に嫉妬から詮索してるわけじゃない。今後の行動を決定する上で、マナが彼にとってどういう存在なのか、正しい理解が必要なのだ。


「あのね、これから話すことは別に責める意図とか全くないし、喋りたくなかったら喋らなくてもいい。純粋にあんたのことをちゃんと知りたいから、少し立ち入った話がしたい」


 凪は少し驚いたようにこちらを見た。


「何? あらたまって」


 彼との緊張感の落差に、溜め息が出そうになるのをぐっと堪える。彼は突然マジのトーンで話しかけられた気でいるのだろうが、こちらは今日会ったときから今までずっと張り詰めていた。


 気を取り直して話を続ける。


「マナとあんたのその感じ、はたから見てると意味分かんないんだ。やっぱ」

「はは、その感じって何。晴香の言ってることのほうがよく分かんないよ」


 確かに。違和感の言語化が難しい。


「なんというか……出会ったばっかりのはずなのに互いの距離感が近いし、身を危険に曝してまで手助けしようとするし……言葉を選ぶのが面倒くさいからはっきり言っちゃうけど、不気味」


「ふうん。そういう印象になるのか。まあそうだよね」


「誤解しないで。凪がどれだけマナに対して拘ろうと、あたしは何も言わない。あんたはあんたなりに抱えているものがあって、それをなんとかしようとしている最中だって分かってるから」


「晴香のその優しさも、僕にとっては相当不気味だよ」


 彼は顔におどけるような笑顔を貼り付けた。

 まるで冷たい壁のような作り笑い。そうやって冗談めかすのは、これ以上深くまで立ち入ってこないでほしいという気持ちの現れだろうか。

 いつもならここで撤退するところだが、今日は退けない事情がある。


「あんたにとってのマナはかなり特殊な存在で、その感情には……あんたの昔の恋人への想いとか、そういったものが絡んでる。そこまでは知ってる。あたしはあんたじゃないから気持ちの細部は分からないけど、それが雑に扱っちゃいけないものだってことぐらい分かるよ。だからなおさら、今後のために聞かせてほしいことがあるの」


 横目でちらり顔を確認する。彼はいつもと変わらない表情で、前を見て歩いていた。

 手に汗が滲む──ここから先は、こいつの心の地雷原だ。


「……もしこれからも今みたいなことを続けて、その過程でマナがいなくなったとしたら、あんた、自分がどうなっちゃうか想像できる?」


 彼は即答しなかった。顔の表情を少しも変えないから、無言の間に何を考えているのかも分からない。

 ああ、嫌だ──深い話をするとき、凪はいつもこうなる。外から見えないその内側にどんな感情があるのか、不気味で、得体が知れなくて、ただただ怖い。


「……少し前みたいに戻るだけだよ。大人になることを諦めて、彼女と一緒に理解していくはずだった未整理な感情をそのままに、何も分からず死んでいくことを受け入れる」


 息が詰まりそうな沈黙の後、彼はいつもより少し明るいトーンで言った。


「まあでも、彼女を見捨てたあの瞬間の気持ちをもう一度体験するようなことがあったら、次は完全に壊れちゃうかもしれないな」


     *


 凪との会話で精神をすり減らし、ヘロヘロの状態で自宅の玄関をくぐる。

 鏡に映る自分の顔からは生気が失われていた。まるでゾンビだ。思わず乾いた笑いが出る。

 全力で生者を装いリビングへ戻ると、キッチンカウンターの向こうにいたマナが話しかけてきた。


「おかえり晴香ちゃん。久々のデート楽しかった?」

「デートって……駅まで着いていっただけだよ。あ、お皿洗ってくれたんだ。ありがと」

「……あれ? 凪くんと喧嘩でもした?」

「いや、別にしてないけど。なんで?」

「なんか落ち込んでるから」


 マナはこちらの目をじっと見ている。それが嘘や隠し事を察知した時の仕草だと、いいかげん分かってきた。


「あたしの顔に暗号文でも書いてある?」


 あんたが人の心を覗き見ようとする仕草だってお見通しだ──心のなかでそう呟きながら苦し紛れのカウンターパンチを披露する。たまには少しは困ってくれ。


「晴香ちゃん、私を見るとき後ろめたそうにするようになったね。何か隠してるでしょ」


 マナは怯みもせずに夫の浮気を疑う妻のような台詞を言った。どうやらノーダメージらしい。


「……別に」

「私に隠し事ができると思う?」


 もしマナと付き合う人がいたら、相手は苦労するだろうな──晴香は頭を掻きながら溜め息をついた。

 マナはまだ目を逸らそうとしない。


「あのね、例えばもし私をなんらかの証拠として警察に提出することで晴香ちゃんがお父さんに会えるようになるとか、そんな事情があるなら、そうしてもいいよ」彼女は胸元に手先を添える。「この命は晴香ちゃんに救われたものだから、別にどうされたって構わない」


 当たらずとも遠からずだ。降参。晴香は心の中で白旗を揚げた。

 マナの口ぶりにイライラが募る。彼女が自分の命をどうされたって構わないと言ったところで、こっちはこっちの心情があるのだ。

 わざとその気分を顔に出す。全ては話せないが、せめて自分がどういう気分の中にいるのかはマナに知ってほしかった。

 マナは寄せていた眉根を緩めて少し笑った。想像していたどのような反応とも違う。


「やっぱり晴香ちゃんは晴香ちゃんだね。あなたがそういう人だから、私は安心してこの身を任せられる」


 何が言いたいのか分からない。


「私が消えるようなことがあったとしても、晴香ちゃんが必ずこの魂の工場を止めてくれるって信じられるから」


「……」


 ギュッと胸が詰まる。


 もう限界だ。


 昼間からずっと誰を見捨てるか考えあぐねて、もういつ爆発してしまうか分からない。これ以上話し続けていたら、どうにもならない怒りを無様に喚き散らしてしまいそうだ。


「……ごめんマナ。今日はあんたが〝ヒギンズの箱庭〟の体を使った時の通信内容を解析をするから、ちょっと集中したい。一人になりたいから、先に寝室でゆっくりしててくれない?」


 そう言ってマナを追い払う。

 彼女はこくりと頷いたあと、少し笑いかけてくれた。いつも心を癒やしてくれる天使のような微笑が、その時はすごく重たく感じた。



 その夜の解析作業中、晴香はマナが何者であるかを知った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る