31

 晴香は作業に疲れ、寝室を暗くしてベッドに寝そべり、目を休めていた。


 不意に手首の携帯端末が震える。電話のようだ。凪だろうか?

 違う。端点の情報が辿れない通話手段による着信だ。こんなもので連絡をとってくるのは、素性を隠して付き合っているハッカー仲間ぐらいしかいない。どうせ仕事の依頼だろうと思いながら、応答ボタンに触れる。


「はい?」

〈櫻井君の電話で間違いないかな〉

「は? 誰ですか?」


 電話の声には違和感があった。自然な日本語として聞き取れはするが、なんだか人の声に聞こえない。男か女かも分からない。抑揚にも乏しい。

 まあそんなことはどうでもいい──少し苛立ちながら返事を待つ。貴重な休息タイムを邪魔した挙げ句、名乗りさえしないこの礼儀知らずは一体何者なんだ。


〈……〉


 返事がない。いたずらか──晴香は溜め息をついた。


〈風俗店から脱走した自律機に関する相談、と言えばピンとくるだろうか〉


 通話を切ろうとした所で相手がそう口にした。弛緩した意識が遅れて意味を把握し、ぼやけた頭が一瞬で冴える。


──マナをかくまっているのがバレたのか? いつ? 誰に?


〈あまり人に聞かれたくない話なんだ。五分後かけなおすから、すぐ一人になってくれ〉


 突然のことに何も言い返せぬまま通話を切られた。携帯端末の指向性スピーカーから流れるツーツーという正弦波だけが、呆然となった頭に淡々と知覚される。


 呆けている場合じゃない。とにかくすぐに一人にならなければ。


 リビングへのドアを開け、そっとマナの様子を確認する。

 彼女はソファーに寝そべって、閉じかけのまぶたで貸したタブレットを眺めていた。ついさっきまで同じ部屋にいた時、彼女は何度かそれを顔に落としていた。

 マナに話しかけられたら十中八九今のことを隠し通せない。彼女の隠し事を見破る力はほとんどエスパーだ。全力のポーカーフェイスでマナの横を通り過ぎ、玄関へ続くドアに手をかける。


「あれ、晴香ちゃん。どこか行くの?」音に気づいたマナがこちらを向く。

「ああ! うん、ちょっとコンビニ」

「……ほんとに?」


 バレたかもしれない。しかしこんな時には秘策がある。話題を変えるのだ。


「なんでこんなことで嘘つくのよ。なんか買ってきてほしいものある?」

「うーん、特には……。あ、昨日余った野菜カレーにしちゃいたいからカレー粉あると嬉しいかも。あとそれに入れる肉を、晴香ちゃんが好きなだけ」

「今夜はカレーか! わかった。じゃあ行ってくるね」

「いってらっしゃい。ご飯炊いておくね」


 夕飯の材料の会話と突然訪れた危機とのコントラストに泣きそうになる。できることならずっとごはんの話だけしていたい──そんな思いに後ろ髪を引かれながら玄関を出る。

 背後で鍵の閉まる音が響いた。このドアより内側の空間は聖域だ。誰にも触らせない。何が起きてもマナとの日常は自分が守る──心の中でそう呟き、そっと玄関のそばから離れる。


 自宅の裏路地で、いつも内緒で餌をあげている猫と顔を合わせる。彼か彼女かも知らないその子はこちらの姿に気づくと、いつものように足元へすり寄ってきた。

 今日は君を満足させられるものを持ち合わせていないのだ──ふかふかした頭を一撫でし、路地の突き当り、建物に設置された梯子の前まで小走りに進む。


 そのまま梯子を上り、目的地である自宅の屋上に到着した。


 エアコンの室外機の生暖かい風が足にかかる。その空気を吸い込むのが嫌で、逃げるように屋上の中ほどへ移動した。

 待つだけの時間に不安が募り、少しでも気を紛らわせられればと空を仰ぐ。今日は少し、雲の流れが速い。


 手首の端末が再び震え出す。


 ついに来た──端末が空間に投影するダイアログをまじまじと見つめ、唾を飲み込みながら応答ボタンに触れる。


「あんたの言う通り、一人になったわよ」

〈車の音がするな。屋外か〉


 この家は車の往来が激しい道路沿いにある。会話内容が人に聞かれることを気にしているのだろうか。


「人通りのある公共の場にいるわけじゃない。安心して」

〈そうか。要件に入る前に、まず自己紹介をさせてほしい〉


 ようやく相手の正体が分かる──無意識に握っていた手が汗ばむ。


〈君は最近、特殊な制御系が搭載されたヒューマノイドを手に入れただろう。その機械の内部で動いているソフトウェアの開発主体は、私の運営する組織──〉


──まさかと思ったが、やっぱりそうか。


〈──私は君が拾った魂の生みの親だ〉


 これまで探していた人物から、まさか直接連絡が来るとは──握った手に力がこもる。緊張が高まっているのはこの状況への危機感からだけではない。これはチャンスでもある。

 マナの開発者に出会った時、最初に質問したいことは決まっていた。


「…… 一つ質問させて。あんた、あたしの父を知ってる?」

〈想像の通り、その制御系の成り立ちには、私と、君の両親が関わっている〉


 そこまで話して、相手は少し沈黙を挟んだ。機械音声のような一本調子の声からは感情が読み取れず、そこで何を思ったのかはよく分からない。


 不意に鼻の頭へ水滴が落ちるのを感じた。雨が降り始めたようだ。空を見上げると、雲の切れ間から覗く青空が風に弄ばれる細かい雨粒を照らしていた。


〈君にはいつか本当のことを話さなければいけないと思っていた。少し昔話をさせてほしい〉


 まるであたしのことを知っているようだ──義務感をまとったその口ぶりに、晴香はなんとなくそう予想した。


くだんの制御系内で動く魂のモデルは、とある超高度AIの頭脳の中で発生するものだ〉


 やはりマナの制御系には人類未踏産物レッドボックス由来の技術が用いられていたのか。いつだか自分がそう話した時、鼻で笑った凪に聞かせてやりたい。


〈君の両親とこのモデルの振る舞いを調べるうち、私はこれが真に人間の労働力を代替する技術だと理解し、その実用化を推し進めようとした。しかしその目処が立った時、君の両親はその利用に強く反対した〉


 彼は両親の共同研究者で、その研究成果の利用について意見の食い違いがあったというわけだ。新しい発見が新しい倫理的な議論を生み出すことはままある。ここまでは珍しい話ではない。


〈彼女らはその技術が利用できないよう、一切の研究成果の破棄を試みた。同時に、モデルの源泉となっている超高度AIを管理する企業にそれが抱える倫理的な問題点を指摘して、利用についての段階的な縮小を求めようとした〉


 両親の行動の意図は理解できる。マナやアカネのような存在がこの世界に新たな奴隷階級として生み出されることを阻止しようとしたのだろう。


〈この技術が世界にもたらす価値と君の両親の存在価値を天秤にかけ、私は前者を残すことを選択した〉


 やはり──この声の主が、家族をめちゃくちゃにした張本人というわけだ。


 ようやく仇敵と会話をする機会を得られたというのに、特に激情のようなものは湧いてこない。疲れた心はこの状況ですら、目的を達成するための通過点として淡々と処理しているようだ。あのとき感じた強い感情はもうとっくに枯れている。残っているのは、それによっていびつになった自分の形だけだ。


「……そう、あんたがね。ずっと話したかったわ。連絡してくれてありがとう。警察に本当のことを話して、父を自由にして」


〈できない。この技術は今この瞬間も、数え切れないほどの人間を不当な搾取から救っている。その成り立ちについて世間に公表し、我々の活動が継続できなくなることでどれほどの命が苦痛に苛まれるか、君にも容易に想像できるだろう〉


 かつてマナと同じ仕組みで動く制御系が地下経済で大量に流れた時、それが人身売買市場の縮小に効果的に働いていた事実を思い出す。

 感情が許すかどうかはさておいて、その行動の意図は理解できる。マナやアカネのような存在を人間と認めない立場にあるなら、彼の行いは理屈が通っている。


 しかし、そうした客観的な善悪の判断に興味はない。


「あんたが安いヒロイズムに酔って気持ちよくなるために、あたしの家族はめちゃくちゃにされたのね……。本当にやりきれないわ。はっきり言う。あんたがやってる事は、単に新しい奴隷階級をつくっているだけだよ」


〈君はあの自動人形が人間相当の存在だと認める立場をとるのか、血は争えないね。まあでもそこは個々人の信念の問題だよ。あれがただの機械であるという前提を共有するなら、私の行動にも合理性は認めてもらえるはずだ〉


「大前提として、あんたはただの人殺しよ」


 本当に大事なのはその一点だけだ。自分と関わりのある存在が理不尽に苦しめられ、奪われたことに怒っているのだ。


〈自分の罪の重さは認めている。特に君には殺されても仕方がないだろう……今更どうしたって償えることではない。それでも、救える膨大な命の重みの前に、私は決断しなければいけなかった〉


「あんたの言う通り、この手で殺してやりたい気持ちは山々だけどさ……あたしは、あんたが司法の下で裁かれることを望んでるわ。そのぶっ壊れた倫理観ではあたしの気持ちなんて理解できないだろうけど」


〈君が思うほど、私と君の間の距離は遠くないさ〉


 気持ち悪い。過去にあったことを抜きにしても、こいつは生理的に受け付けない。

 そんなことより、まだ訊きたいことが残っている。


「ねえ、どうやって脱走した自律機とあたしの関係に気づいたの?」


〈かつて花道通りに現れたものと同じ識別番号の人間を検知したと報告が入った。その周辺で、C8NVM対応の制御系を輸送する車両を尾行していた人物を捕えたという連絡があり、その少年の周辺人物に君がいたためピンときた。そんなところだよ〉


 嫌な予感がした。


 どうして彼は、マナが能力を使った痕跡に気づけたのだろうか? 個人を特定する識別番号とそれに紐づく行動履歴の情報を閲覧できるのは、開示請求の要件を満たす状況下での警察か、行動管理クラウドの管理者のみのはずだ。


「……どうしてあんたがその情報を……行動管理クラウド上の行動履歴を得られるのよ」


〈君が相手にしているものは想像より巨大だということさ。自身の立場について正確な理解を持てたなら幸いだ〉


 考えられるのは、警察内部もしくは行動管理クラウドの運営主体であるミームフレーム内部のどちらか、あるいはその両方に協力者がいるということだ。

 相手がどの程度これらの組織をコントロールする能力を持っているのか分からない。暴力の行使に踏み切られた場合、自分やその周辺に起こる危険に対策ができない。


〈さて、本題に入ろう。こちらからの要求は二つだ〉


 今は何もできない。手足をもがれたようだ。

 でも、まだ全てが終わったわけではない。身動きが取れないのは相手の情報が少ないからだ。こっちにはまだ師匠から貰った力がある。マナだっている。今日分かったことを踏まえてまたこっそり情報を集め、相手の弱点が分かった所で叩けばいい。


〈一つめ、君たちはこれ以上我々を嗅ぎ回らないと約束してほしい〉


 当然の要求だろう。ここは一旦従うふりをして様子を見るしかない。

 大丈夫だ。水面下で情報を集める方法はいくらだってある。これまでより少し慎重になるだけだ。


〈二つめ、君が確保したその機体を回収させてほしい〉


 予想外の要求に、思わず目を見開いた。


──マナを? どうして?


 心臓が黒い緊張を全身に押し流す。強い耳鳴りの後で、うるさく鳴っていたビル風の音が遠のいた。通話のノイズだけがやけに近くで感覚される。

 強い喪失への恐怖の中で、最後に見たマナの笑顔が脳裏に浮かんだ。


 彼女だけは絶対に渡したくない。


「……前者は約束してもいい……でも……あの子だけは……」


〈この条件を妥協することはできない〉


「別にいいじゃない! 同じようなやつ沢山作ってるんでしょ! もうあんたが進めてることの邪魔はしない……お願いだから、あたしからもう何も奪わないで……」


〈その機体の制御系は調整が不十分で、記憶がマスキングされていること以外はベースとなる人格を維持している。その上ヒギンズにおけるシミュレーションの計算単位としての能力もそのままだ。リスク管理の観点から放置できない〉


 まただ。

 大切なものは、この人に全部奪われてしまう。


〈要求を飲まなかった場合の話をしよう。君は身寄りがないから人質として有効な人間を選択することが難しいが、少なくとも一人いるね。結城理沙君だ〉


 壊れそうな心に追い打ちをかけるように、相手はその名前を出した。


〈彼女は一年と少し前、君と同じように我々に近づいた。君の父親が彼女の恩師だったためだろう。そのため今、彼女には我々の監視下で生活してもらっている。君が要求を飲まない場合、まずペナルティを受けるのは彼女だと思ってくれ〉


 一年と少し前──師匠がAS2081の脆弱性に関する検証実験を依頼してきた時期だ。よりにもよって、こんなときにあの行動の意味に気づくなんて。


〈彼女だけじゃない。行動管理クラウドのログからあらゆる人間を追跡できる我々にとって、君の全ての周辺人物は人質になり得ると考えてほしい。もちろん、埠頭に訪れた君の協力者もだ〉


 濡れた髪から水が滴り落ちる。雨と湿気の不快感が肌を覆っていく。

 いつの間にか鈍色の雲が太陽を遮り、大きくなった雨粒が音を立てて地面へと降り注いでいた。

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