30

 落ち込んだ気分は晴れないままなのに、空は素知らぬ顔で澄み渡っている。こちらの気持ちなんてお構いなしに注ぐ夏の日差しを、アスファルトがぎらぎらと照り返す。

 晴香は逃げ場のない眩しさを目を細めてやり過ごしながら、マナと二人で荷物を背負い、規則正しく配置されたコンテナ型トランクルームの間を歩いていた。


「こんな顔で外出たくなかったな……」


 昨日泣き腫らした目元は、今日も酷い有様のままだ。


「そんなに気にしなくてもいいよ思うよ。もうよく見ないと分かんないし」マナはそう言うが、晴香自身にはそう思えない。


「昨日のあれさ、つっけんどんな態度に感じたはずだよね、やっぱ……早く凪に謝りたい」


 こういった後悔は初めてではない。何度も同じようなことを繰り返しては、今日のように自己嫌悪に陥る。

 自身のプライドの高さに呆れ返りながら考える──どうして凪には弱い自分を見せられないのに、マナの前では自然体でいられるのだろう。


「大丈夫。凪くんが晴香ちゃんの不器用なところを許せない人だったら、もうとっくに離れてるよ」

「笑顔で刺してくるね」

「これぐらいの距離感をご所望かと」そうやって悪戯っぽく笑うマナは、ほとんど天使のように見えた。


 出会ったときには思いもしなかったが、マナには意外と人たらしな一面がある。


 同性の友達欲しさに飢え乾いていたところに、彼女は優しさとあどけなさでどんどん距離を詰めてきた。その心地よさに、為す術もなくあっという間に心の懐まで飛び込まれてしまった。まだ一緒に暮らし始めて二週間も経っていないのにだ。自分はここまで人の優しさに免疫がない寂しがりやだったのかと、なんだか情けなくなってしまう。


「っあぁ、ここだった」目的のコンテナの前を通り過ぎそうになり、一歩後ずさる。


「同じようなコンテナがいっぱい並んでて、なんか間違えそう」マナが不安そうにもと来た道を振り返る。


「まあ、そこは頑張って覚えてよ」


 今日ここへ来たのは、快適な二人暮らしのために部屋から不要なものを追い出すためだ。

 トランクルームの扉はそこそこに強度があり、一度閉まると自動で鍵がかかる。敷地全体には防犯カメラが点在しており、死角がない。マナの外出時、何かあった場合に逃げ込む場所として教えておきたかったため、荷物運び要因も兼ねて同伴させた。


「ちょっと待っててね」


 扉の隣のパネルを開け、番号を入力する。


「暗証番号なんだ」マナが言う。

「ま、本当に盗られたくないものはここに置いちゃだめだね」


 入力が終わる。ストンという金属音が響く。

 扉を開ける。流れ出た空気から、埃っぽさと微かな油臭さを感じた。室内は真っ暗だ。

 中に入る。入口の脇に置かれたライトを拾ってスイッチを入れ、天井からぶら下がったフックに吊す。ライトの光量は比較的強力で、コンテナ内の照明としては十分だ。


「よし……じゃあ荷物の中身を、適当に空いてる所に寄せて置いておいて」


 その指示にマナはこくりと頷いて、背負った荷物を下ろしはじめた。

 晴香も荷物を下ろす。圧迫されていた肩に血が通い、蒸れた背中に空気が流れる。


「あっ、なんか知ってる匂いがするなと思ったら、これかぁ」マナが部屋の隅を見て言う。「晴香ちゃん、絵描いてるんだ」


 マナの視線の先には立てかけられたイーゼルがあり、その下にいくつかのキャンバスが立てた状態で並べられている。


「……あー、昔ちょっとね。今はもう描いてないよ。ちゃんと学校行くようになってからやめちゃった」

「なんか意外。誰の絵が好きとか、そういう話一言も聞いたことないし」


 言われてみればそうかもしれない──彼女の言葉に、絵を描いていた理由を自問する。


「……たぶん、別に絵が分かるわけじゃないんだ。ただ没頭したり、上達したりするのが好きだから、時間つぶしのためにやってただけ」

「へぇ、ちょっと見てもいい?」


 マナが隅に置かれたキャンバスへ近寄る。何故かワッと恥ずかしさが出てきた。心の準備ができていない。


「ちょっと待って! 恥ずかしいな……見るなとは言わないけど、あたしがいるところでは見ないで」

「ふぅん。じゃあいつかこっそり見るね」彼女は伸ばしかけた手を引っ込めて笑う。


 ホッと胸を撫で下ろし、ふと、もう一度マナの顔を見た。


「……? どうしたの?」視線に気づいたマナが柔らかい笑顔を返してくる。

「いや……」


 理由はない。ただなんとなしに見ちゃっただけだ。でも──

 こうしてふとした瞬間に笑顔を見せられるたび、彼女を失うのが怖くなっていく。


「……あのさ、マナ」

「何?」


 唾を飲み込む。マナになら何でも話せるような気がしていた。でも、この話は怖い。


「……あんたがいて、凪がいて、星野がいる。今のこの日常がすごく心地よくて幸せで、大切なんだ」

「うん」

「これが今後も続いていくなら、もう他のことはどうでもいいかなって」

「……昨日の話の続き?」


 父の無実を証明することと、今の日常や大切な人たちの身の安全を天秤にかけたとき、それがどちらに振れるのか分からなくなっていた。それが苦しくて、いっそ誰かに決めてもらって楽になりたいというズルい気持ちがどんどん膨らんでいく。

 もし、彼女の魂の出処を明らかにすることを諦め、このまま二人で静かに暮らしたいと打ち明けたら、そのとき自分は彼女にとって不要な存在になるのだろうか。


「仮定の話だけどさ……」

「うん」


 そう、仮定の話。ちょっと気持ちを確認するだけ──そう自分に言い聞かせ、いつもより大きめに息を吸い込む。


 ちらりと、マナの目を見た。


「……」


 喉まで出かかった言葉が、恐怖で強く押し戻される。


「……ごめん、やっぱなんでもないや」

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